「承ちゃんは、」
「その呼び方はやめろ」
「承ちゃんは、海が好きね」

 彼にとって隣の少女は母の次に厄介な女性だった。何度繰り返してもふわりと笑いながら承ちゃんと呼び続ける二つ年上の従姉のことが、彼はずっと苦手だった。
 高校を卒業して海洋学者になるのだと告げた彼を家族の誰も反対することもなく、それならば専門的なことも学ばなければ、と海外で学んで来いと送り出すような家だった。そんな大雑把に決まっていった海外行きの中で彼女はそれを聞き、わざわざ承太郎の元にやって来た。
 春から、承太郎はアメリカに行く。数年、下手すればそれ以上の期間、隣の彼女とは会わないだろう。ただ彼女ならばひょいと海を越え承ちゃんと、凝りもせず名を呼びに来そうだった。彼女は時々、何の躊躇いもなく、承太郎に会うためだけに動くことがある。なぜなのか、何年経っても承太郎にはその理由がわからないままだが、彼女の数少ない積極性はここに費やされているのだけは、知っていた。

 承太郎の住む町は海にはそう近くない。少し時間をかけ、海岸線に行かなければならない。彼が海を見に行くつもりだったと、突然やって来た彼女に告げればじゃあ一緒に行くわと乗ってきた車に承太郎を乗せ一番近くの海にやって来た。
 車に常備されているのか厚めのストールを纏い、彼女はゆっくりと砂浜を歩く、承太郎がいつもより三倍時間をかけて一歩を踏み出すその時間分が、彼女の一歩だった。ずっと、ずっと変わらず。
 春先の海はまだ陽ざしを受けても冷え冷えとして、波打ち際で裸足で歩くのも冷たそうだった。その境目を彼女は平気で歩く。真っ白な平らな靴が砂にまみれて、時折波にさらわれそうになるのだが彼女はひょいと、それを避ける。

「承ちゃん、遊びに行っていい?」
「好きにしろ」
「やった」

 白い、白すぎる肌。細い、細すぎる体。折れて、あっさり死んでしまいそうで、物心覚えてから承太郎は彼女に簡単には触れられない。小突くことすら、この体は耐えられないのではないかと、躊躇った末に触れる選択肢を、承太郎は捨てた。
 承太郎の唯一の、従姉弟だ。彼女の方にとって唯一だったかは、承太郎は忘れてしまった。彼女は家の話をほとんど、しなかったので。

「承ちゃん、今度私ね、手術しにアメリカに行くのよ。だから本当に遊びに行くわ」
「……そうか」

 何度、彼女のこの言葉を聞いただろう。
 こんどね、しゅじゅつをするんだって。
 初めて聞いたころから彼女の言葉はいつも他人事だった。彼女はいつも、波打ち際で波にさらわれそうな歩き方をしながら、まるで他人事のように自分の人生を生きていた。少なくとも、承太郎にとっては、彼女の人生はそうだった。

「父様も、諦めないわねえ」
「諦めてどうする」
「それも、そうだけれど」

 彼女の父親の方がよほど、彼女が波にさらわれないようにと必死だった。承太郎は以前会った伯父が真に娘を愛していることを知っている。娘もまたそれを受け入れているのに、彼女は波打ち際を歩くことを恐怖しないから、彼女の周りはその歩く姿から目が離せない。
 そろそろ車に戻れと、声をかけようとしたところだ。

「そろそろ、行かなくちゃ」
「どこにだ」

 つい落ちた言葉に承太郎は彼にしては珍しくしまったという顔で、それを隣で仰ぎ見た彼女は一瞬彼の顔を見つめて、すぐふわりと笑った。そうしていつものように彼の名を呼ぶ。

「承ちゃん」
「……」
「行こう」

 寒くて風邪ひいちゃいそう。
 細い腕が承太郎の左腕をとんと叩いて、承太郎はぎょっとしながら頷いた。

「承ちゃんが子ども持つまでは、元気に生きるつもりだからそんな壊れ物みたいにしなくていいのに」
「てめえ」
「せっかくだから承ちゃんの孫まで見たいわねえ」

 私たくさん貢ぐわ。
 波打ち際から離れた彼女はくすくす笑って承太郎を見上げて笑う。寒々しい海を背に、木漏れ日みたいな笑顔。

「承ちゃんも父様も、馬鹿ね。私、泳ぐの得意よ」

 車に乗る直前、ため息交じりに笑われて、承太郎はなんとなく目を合わせられなくて、ぐいと帽子を被り直した。



(海辺の綱渡り)