田舎の、村から外れた山間で密やかに一人暮らしていた私のもとへやって来たのは道士を名乗る妙な男だった。男の名は、太公望という。
 数日前に行き倒れるように家の前にたどり着いたその男を、私は何も知らずに介抱してしまった。そうして意識を取り戻せば私に会いに来たというから怪訝な顔をして追い返そうとしたのに、薬草を取り扱っていることを言っていたものだから倒れて本調子じゃないので様子を診てくれと毎日訪れては家に居座っている。
 今日も今日とてお茶を要求し、昼過ぎのひと仕事を終えた後に説得しにきている。

「というか私に仙人コツ?」
「コツの発音が違う。骨だ、骨」
「仙人骨とやらが私にある、と」
「うむ」
「それで仙人界でたらららったらーとかして修行しないかと」
「まあ、簡単に言えばそうなるのう」

 相手が怪しくて話半分に聞いていたものの、身寄りもおらず、山で手に入らない食料を交換しに村に行かなければ一人の私にとっては仙人界で修業をするのもここで日銭のための薬草を育てるのも大差はない。
 茶器の中の茶は飲んだばかりだからか手元で揺れている。
 視線を上げれば食えない顔をした青年がいる。相手はきっと実際よりも年かさなのだろう。下手をすれば何百年も生きているのかもしれない。修業をすれば私もそうなるということだ。

「不老不死になるのは、気が向かないんだけれど」

 そう言うとなぜか太公望は目を丸くしていた。きっと、不老不死と聞けば多くの人間が飛びつくだろう。私も仙人の存在は噂に聞いていたし、会ったこともない大富豪は己の富を守るために、その富を味わい続けたいがために不老不死を望んで仙人になりたがるという。
 でも、私にとってはあまり魅力的なものでもなかった。

「なぜ気が向かぬ?」
「人が死ぬのをたくさん見なければならない」
「仙人界ではみな不老不死だから死など滅多にないぞ」

 言われれば周りも同じならばそうなのだろう。それは思いつかなかったので頷いた。
 けれどそうだとしても、やはり魅力的には聞こえない。

「死っていう感覚を忘れるのも、人として嫌」
「仙道は、人間とは違うものだからのう」
「……人間と、違う」

 確かに、寿命がある存在から、そうではないものになるのならもうそれは人とは違うのかもしれない。
 目の前の人は私と同じ人のようだけれど、その実違う生き物なのだろう。

「まあ必ずしも仙人への道に進まんでも良いとは思うぞ。そのまま人として生きるのもよし、道士となり、仙人になるのもよし」
「仙人にならなかったらどうなるの?」
「筋力が異常発達し、超人間とやらになる。ある意味人の枠を超えた存在だの」

 そう言われた瞬間に確かに人よりは丈夫な体で生まれてきた自覚はあったので、このままいけばそれがもっとすごくなるということだろうと想像はついた。それがいいのか悪いのかは、私の中ではまだわからない。
 それでも、少しだけ、目の前の道士という存在に興味は出てきた。

「太公望、道士ってことはあなたはまだ見習いでしょう?」
「うむ。崑侖山の元始天尊様の一番弟子だ」
「なぜ私を勧誘しにきたの? 普通は仙人様自らが来るんじゃないの? 弟子に行かせるもの?」
「元始天尊様は今ギックリ腰……いろいろとお忙しい方だから代わりだよ」
「……ふうん。わかった」

 仙人でもギックリ腰になるのだと一つ知りたくないことを知ってしまったけれどそのあたりは置いておくことにする。
 行き倒れの譫言かと放っておいたけれど、なんだか本当に仙人への道を問われているのだと実感してきた。この数日、太公望は聞けば私の問いに答えてくれたし、その言葉に嘘はなさそうだった。

「太公望はいつ道士になったの?」
「いつだったかのう……四十年以上は前かの」
「なんだ、まだただのおじさん」
「な! わしはおじさんではない! 仙人界では若すぎる方だぞ!」
「人間界から見ればおじさん。私から見れば四十以上上だなんておじいさんでもいいでしょ」
「……十代に言われては否定できぬ」

 唸る相手は二十歳にも届かなさそうな見た目だし村の大人の見せる年上の様子もない。まるで見た目のとおり、私よりも少し年上の少々うるさい旅人にしか見えない。
 話せば話すほど、村でおとぎ話として聞いていた仙人とは違い、目の前の仙道と呼ばれる相手が人に見えてくる。限りのない命を持っていると言われたのに、そんなことも忘れるぐらいに相手は感情豊かに自由に語る言葉を持っていた。想像していた髭を生やした威厳ある老人はどこにもいない。太公望からはこの数日、今の仙人界にいる仙人たちの話もいくらか聞き、変な人たちが多いことは理解した。
 そうしてしばらく話した後、会話が途切れた頃に太公望は私の顔を正面から見つめ、静かに聞いた。

「お主、家族は」
「死んだよ。一人で暮らしてる」
「一人ぼっちか」
「そう」
「わしと同じだな」

 憐れむでもなくただ頷いた太公望の顔は先ほどよりも静かで、先ほど聞いた年相応の、大人のように見えた。

「わしは十二のとき家族を亡くした」
「うん」
「そのとき元始天尊様がやって来てな。仙人になるために一緒に来ないか、と言われた」
「太公望はなぜ、ついていったの」

 まだ、私の中では仙人への道を選ぶかなんてはっきりしていなかった。けれど、もし人として生きていくことになっても、目の前の人と出会ったことは確かな記憶のまま覚えていたかった。話してくれていることを胸に刻んでおきたかった。
 私が何者であろうと、私は太公望と出会えたことを今良かったと思いだしているから。もう少し、ひょうひょうとしたこの人の話を聞きたかったから。

「やり遂げたいことがあったからだ」
「それは、なに」
「純粋なものではない。復讐のようなものだよ」

 それについて私は何も言えなかった。
 以前ならそんなことを考えるよりももっと前向きに生きた方がいいなんて言えた。
 でも、私は今一人で、一人だったことのあるその人に良いも悪いも何も言えなかった。

「まあ、お主はお主で考えれば良い」
「じゃあ、もう少し話をしようよ」
「今もしとるだろう」
「もう少し。泊まるところがないなら使っていない部屋を貸すから」
「……仕方ないのう」

 そうして少しの間、私は一人暮らしから二人暮らしになった。


***


「働かないなら目の前でのんびり桃を頬張らないで」
「おぬしが決断を出さぬからだろう。わしとてさっさと帰りたいがお主のことを放置して帰れば元始天尊様がうるさいからのう」

 そうして太公望は桃を頬張る。
 私は常にだらだらとしている相手のことは諦め、せっせと洗ったばかりの洗濯物を干している。

「今日の天気なら洗濯物も早く乾く」

 太公望よりも今日の洗濯物の方が大事だ。山奥の中、貴重な日差しの注がれる場所にせっせと洗濯物を干していく。

「しかしおぬししっかりとしておるのう」
「なんでも自分で賄うから。畑は裏にあるしなんとかなるのよ。必要以上に村や街には行かない」

 本当にギリギリまで街や村には行かない。行かないというよりは、行きたくないが正しいけれど。
 黙々と洗濯物を干し終え、入れ物を抱えて一度家に入ろうとする私を見て太公望は不思議そうな顔で見てくる。

「お主、仙人界に向いとる気がするけどな」
「わからないわよ、住んでみないと」
「来てみぬか?」
「簡単に言う」

 簡単に言われるそこは、一線を越えれば戻れない。
 けれど、足を踏み入れれば私の知らないものがたくさんあるのだろう。
 知らないものは可能性があって、だからこそ、私にとっては怖いものだ。

「だけど」
「だけど?」
「太公望の言う仙人界は、気になってはいる」
「来るのか?」
「まだ、わからないって。そもそも仙人界って土がないんでしょう?」
「空にあるからのう。まあないわけではないが」

 膝を折り、土に触れる。大地に住まず、生きる道があるなんて思いもしなかった。

「私、大地に生まれ、大地で死ぬと思っていた」
「わしもだよ」

 まさか、仙人になるとは思わなかったからのう、と太公望。

「待たせてて申し訳ないけど、まだ決めかねる。空で生きてみるのは、悪くはないかもしれないけれど」
「およそ想像のつかぬ世界であろう」
「うん。ごめんね、長居させて」
「いや、わしはわしで都合がよい」

 こんな山奥で過ごすことに何の都合のよさがあるんだろうか。不便に違いないのに。
 首を傾げて太公望を見れば彼はにやりと笑った。

「大義名分で修行がサボれるからのう」

 それが気遣いなのか本音なのかどちらもなのか、私にはわからなくてただ頷くだけにしておいた。


***


 太公望がやって来たのは秋の初めのころ。今は随分と秋も深まっている。冬の山は危ないからこのまま暮らすのなら私は山を下りる準備をしなければならない。太公望も、そろそろ答えがほしいと思う。
 太公望はいつも家にいるわけではないから、きっと師匠に所在は明らかにしているんだろう。帰らないといっていない夜もあった。それでも何をするでもなく大半を私の家で過ごしていた。
 わかったことはいくつかある。
 太公望は桃ばかり食べる。仙人界の人たちは草食に近いらしい。
 太公望はなまけものだ。修行の一環の瞑想と称した居眠りばかりしてる。
 太公望はやさしい。私が本当にさみしいときはそっと気を遣ってくれてる。

 家族がいなくなり、一人になれた私にとって一人じゃない生活は思ったよりもさみしいのだと、私は太公望がそばにいることで知ってしまった。



 外から聞こえる嵐の気配に私は思わず腕を抱きしめる。

「季節はずれの嵐」
「雨風もすごいの」

 家の周りの吹き飛びそうなものはしまい込み、畑にもなるべく被害が出ないように工夫をした。窓や出入り口にも雨風が入り込まないように補強をして、私たちはその補強の隙間から外を窺っていた。

「嵐の日は大人しくしているのが一番」
「いい心がけだ」
「母さんはいつもそうしてたから」
「それは、ますます従わないといけぬな」

 対策をして閉じ籠った家の中で私は母と時を過ごした。昔からある物語を聞いたり、母の昔の淡い恋の物語を聞いたりした。そして父親との出会いの話の最後に母親ははにかんだ笑顔を浮かべるのだ。
 私は嵐は嫌いだったけれど嵐が来ればそうして母がずっと一緒にいてくれるから、だから嵐がくるとこっそり喜んでいた。
 もうそれは叶わないことで、私に優しい声が注がれることはない。もう私の大好きだった人はどこにもいない。

「太公望、私の家族はね、死んだわけじゃないの」
「?」
「殺されたの」

 太公望が、一瞬息をのんだ。
 私は続けるかどうか迷って、でも太公望がただ黙っているから口を開いていく。

「その日、私はたまたま一人で留守番していたの。父さんと母さん、それからお兄ちゃんが出かけていてね。その日誰も帰ってこなくて泣いていたら、母さんの知り合いが、ここまで知らせに来てくれた。お兄ちゃんが、偉い役人の気の触ることをしたらしいの。父さんと母さんはそれを庇って、三人とも殺されてしまったって。でも、詳しいことは、よくしらないの。墓も、中身が空っぽのまま」
「そうか」
「うん。だから、太公望が復讐のために仙人になったって前に言った時、何も言えなかった。だって、私もそういう気持ちがないわけじゃないから」

 私は太公望の顔は見ず、遠くで吹きすさぶ嵐の風音に耳を澄ませた。
 一人で過ごす嵐の夜は怖かったけれど、今日はあまり怖くない。ただ目の前の人の表情だけは真っ直ぐ見られる気がしない。
 実際、私はお兄ちゃんを殺した役人の所に行こうとした。けれど、その日、役所の前に立った時に大きな男の人に止められた。私はよほど血走った目をしていたんだろう。事情を聞かれて私はなぜか素直に話した。家族を殺した相手を殺してやるのだと。
 そうするとその人は悪かった、と自分がしたことではないのに頭を下げた。同じ国に仕える者として申し訳ないと。私のような子どもがこれ以上増えないようにするからどうか堪えて、無謀なことはしないでくれと。大の大人がよく知りもしない子ども相手に随分と真摯な人だったと今にして思う。
 そうして謝られて、どうしようもなくその場に立ち尽くした時にようやく気が付いた。
 私は家族を殺した奴が憎くてたまらなくて、そしてどうしようもなく一人ぼっちの今が嫌で、無謀だと言われても死んでもかまわないからこの憎しみとさみしさをどうにかしたかったのだと。
 でも、それは優しくも厳しい見知らぬ誰かに止められ、私はただ元の生活を一人でもやっていこうとしていた。

「しばらくはどうしようもない気持ちで、ただ日が過ぎていった。そうしたら、そんな時に太公望が現れた」
「わしか」
「そう。嬉しかったんだよ。一人じゃなくなって」

 太公望にとってこれは地上に下りられるちょっとしたおつかいなのかもしれない。私の様子を見ると言いながらも村や街をそっと覗き見ていることを私は知っているのだ。時折見てきたのだろうその様子を私に伝えてくれるのは、外に出ても怖くないと言いたいのかもしれない。

「太公望、桃ばっかり食べている記憶しかないけど、いろいろありがとう」
「お主それ余計ではないか? 桃はうまいのだぞ」
「そうだね。一口もらったけどあれ美味しかったな」

 仙人界で育つ桃は特別甘いのだろうか。それともたくさん種類があるのだろうか。

「太公望。春になったら山の奥できれいな花が咲くんだ。一緒に見に行こう」
「お主わしに春までいろと?」

 秋も終わりと言えど冬の間まで待てとはずいぶん気長な話だろう。私も思わず笑ってしまった。

「冬の間は山を下りるから。その間にいろいろと仙人界のこと教えてよ。その間は仕方がないから村や街のこと案内してあげるから」
「お主わしが何も知らぬ子どもとでも思っておるのか?」
「お金がない時点で子どもと大差ないでしょう」
「ウッ」

 人間の銭など長い時を生きている仙人にとっては容易く移り変わるものだろう。民も王も国ですら下手をすれば移ろいやすいものに違いない。

「それに、思うんだけれど不老不死の仙人道士たちなんでしょう? 太公望が半年ぐらい人間界にいても大差ないんじゃない?」
「お主も事情がわかってきたの」

 話を聞けば仙人は不死ということで時間の感覚をあまり気にしない。修行も各々に向いたやり方をする。しかも同じような生活の繰り返しだという。半年と言わず一年いなくても本人と師匠ぐらいしか気づかないのではないかと思ったのだ。

「太公望って嘘下手だよね」
「人間嘘をつくと信頼がの」
「太公望は仙人。あ、道士様か」
「細かいのう」
「年を取ると私もおおらかになるのかな」

 年寄扱いをすればするで妙に張り合ってくる太公望はこの日もムッと顔をしたかと思えば若者には負けないなんて室内でできる体力勝負を挑んできたので若者らしくこてんぱんにしてやった。
 へろへろになって部屋に入る太公望を見守り私も横になれば一つ自分の中で出した答えに今頃になってドキドキしてきた。

「春が来なければいいのに」

 それでも春を迎えれば私はきっとあの太公望と長く付き合うことになる。それはそれで楽しみだと思う気持ちもあって、胸の奥が苦しくて息苦しいのに、どうしてかはしゃぐ気持ちを抑えられない。
 そんな気持ちを昔どこで聞いたんだろうかと思えばそう、嵐の夜、眠る前に母が内緒ねと話してくれた娘時代の恋の話だと気が付いて、そうして私はそこで自分が抱いている気持ちの名前をぼんやりと気が付いてしまった。

「……春なんて、来なければいいのに」

 桃を美味しいと食べる相手をからかうように一口桃をさらうように、すぐに体力が尽きて床で大の字になる様を大笑いするように、何も考えずただ過ごせればよかったのに。
 どうにも私の今までは今夜を境に変わってしまったらしいから、明日からどう太公望と接するか、私は悩みながら嵐の音なんて忘れてしまうくらい頭を悩ませながら気づけば眠りに落ちていた。




「最近太公望が人間界で年若の娘に手を出したって噂聞いたけど本当?」
「だあほ! 手を出しておらぬわ! 太乙どこからそのような噂を聞いたのだ! 誤解だ!」
「でも娘さんには会ってるんだね。白鶴が春だって笑ってたよ」
「あの鳥丸焼きにしてやろうか」

 そう言いながら結局春めかしいことを否定しないことに太乙が気が付いたのは太公望と別れた後だった。聞けばその日も元始天尊への報告を済ませては娘の元へと様子を見に行くところだったというのだからサボりが好きな男にしてはわかりやすいことだと、太乙は思わず微笑んでいた。


(羽化するもの)