ゾルディック家で初めて大泣きした日以来、は屋敷の中ではいきいきと生活するようになった。
まず、心配していた猛毒は耐えられる量しか出ないと再度確認が取れた。キキョウについては慣れだと、ゼノにもイルミにも言われてしまったが。勉強は相変わらず逃げ腰だが事情を知ったゴトーは前と変わらず、むしろ前よりもスパルタになった。ただしそれ以外では彼は非常に優しく、まさに飴と鞭状態である。
そして彼女があの叫びの中で気持ち大きめに叫んでいたことは、残念ながらいまだに叶えられていない。
「けど面白いよね。オレの嫁だなんて」
「……」
最近のイルミはで遊ぶという暇つぶしを覚えたらしい。の失言を拾っては彼女にぶつけることで感情を乱させ、乱せば乱したことで修行のペナルティを課していく。いついかなる時も感情的に揺さぶられることがないように。そう言いながら彼は淡々との心を揺さぶる。大人げないのは相変わらずだった。
「いい加減耐性ついたか。んー、じゃあ今日はよくできたしオレと一緒に寝る?」
「!」
「はいアウト」
今日のの修行はマラソンをして体力をつけること。ついでに感情を抑制することも試している。
喜怒哀楽すべての感情を抑える。つまり今のの反応は完全にアウトだった。
「オレと寝たいなんて酔狂だしああいう肩が凝ることもうやりたくないんだよね」
「人と寝るのが、どうして?」
「あのさ」
ひんやりと、空気が凍る。
それはにとって何気ないことだった。当たり前の行為で、特に何の違和感もない、日常的な会話。しかし、イルミにとってそうではなかったらしい。
この感覚をは知っていた。イルミは時折、このぞっとするような空気を生み出す。その度、はがくがくと震える。今も全力で逃げだそうとしたのにイルミはの方に手を当てて逃がしてはくれない。
逃げろと、体の奥の何かがに叫んでいる。の瞳からは涙がぽろぽろ。落ちていく。
ゾルディック家の広い敷地の、森の中。生き物の気配はすれども、人間はイルミとしかいない。
「前から思ってたんだけど、オレに質問する意味はあるの? それが何か利になるならオレだってわかる。けどそれはオレに何の利もなければそっちにも何もないよね。時間の無駄じゃないの?」
「っ」
は声をのむ。言葉が出てこない。息をしているのか、していないのか。それすらもにはわからない。ひどく、苦しい。
そんなの様子にイルミは表情一つ変えることはない。そもそも、彼は逃げようとしたの背中を見ていた。顔など、気にも留めていない。
「オレは教育を任された以上それを守る義務がある。そっちはゾルディック家で預けられたからにはここのルールに文句は言えない。恨むなら自分の祖母を恨むんだね」
ひゅっと喉が鳴った。
イルミのオーラに慄いたのか、二人の周りに生き物の気配はない。風だけが二人の間を吹き抜けるだけだ。
「暗殺者として育てない。そういう約束だよ。けどうちに関わった以上、うちの秘密は執事以上に知ることになる。身の保障はされるけどそれ以上にその身の代償は大きいよ」
「……ふしぎ、だと」
「……へえ」
威圧するオーラに負けず、はゆっくりと、汗びっしょりになりながらも振り返り、イルミを捉えた。それはイルミにとって想定外の反応だ。
すみれ混じりの青色が、漆黒の光のない世界と相対する。
「おもったら、わかるまで、やめない」
「知的欲求への満足のためにオレに質問するのをやめないって?」
さらに大きくなる得体のしれない威圧には体を震わせる。今のにこの得体の知れぬ何かは体に大きな負担をかけた。下手をすれば、命にかかわるほどに。それでもイルミはやめない。も口を開くことを続ける。
「知らないことは、の、名折れ」
それだけは譲れないと、は満身創痍だというのにイルミから目をそらさない。
しかしそれを言い切るとはくたり。意識を失った。イルミはそれをひょいと、手を伸ばして地面に落ちる前に持ち上げた。
小さな体を抱き上げる。残念ながら物のような扱いではあるが。
「……家を誇る、か」
表情一つ変えなかったがふうん、と。の最後の言葉に彼は珍しく興味を示していた。
起きたに降りかかってきたのはとんでもない一言だった。
「オレの嫁になりたいなら契約をしようか」
目を開けて早々、彼女の耳に入ったのはそんな言葉だった。
瞬き数回。天井を見つめたままだったが、ぎこちなく、は顔を横に傾けベッド脇にいた相手と目を合わせた。
「けい、やく?」
「そう。将来結婚をする、という契約。お互いに条件を出して、呑めれば契約成立。将来結婚」
の言葉は子どもの他愛もない言葉の一つだ。将来、もしかすればそれは忘れ去られ、記憶の彼方に消えていくかもしれない、そんな淡い初恋ともいえぬような憧れに近い。
しかしこの世界はにそれを気づかせてくれるほど優しくはない。イルミもまた、に対して優しくはない。
「オレはね、今のきみみたいなのが嫌いだよ。わがままで甘ったれで守られることを当然としているような子ども」
「……」
「まあ別に育てた人間がそんな育て方したからだけど」
筋は悪くない。育てればそこそこに伸びる。戸籍はあるが身よりはいないという点ではイルミにとっては、ゾルディック家にとってはうってつけだ。
は自分について言われた時よりも育てた人間、という言葉に反応してイルミを責めるように見てきたがイルミがそれに何か反応を示すわけはない。
気を失ってしばらく。昼過ぎだった世界は夜、闇の色濃い時間へと移り変わっていた。
「オレが求めるのはゾルディック家にふさわしい嫁」
「……どんな?」
「まあまず一定の強さは必要だね。あとはうちに殉じるのは当然。個人的なことを言えば、さっきみたいな子どもは嫌い」
はっきりと言う言葉にはしばらく黙る。
イルミからみたは、わがままで甘ったれで守られることを当然としているような子どもで、それはイルミにとっては隣に立つにふさわしくないと、そう感じている存在だということ。
「は、」
「名前で呼ぶのも嫌い」
「……」
この人は、との目は不審な目でイルミを見ている。無理もない話で、イルミが一体に何を求めているのか、この場ではイルミにしかわかりえない。
とイルミだけしかいない部屋で、に持ちかけられた提案はあまりにもに不平等な条件下で行われようとしている。
「…………私?」
「まあ、妥当だね」
「……、私、も、イルミにおねがいしていいの?」
「そう。お互いにそれが達成できたら、契約成立」
そっちの条件は、とイルミに言われては黙り込む。
さて、いったい何をお願いするのか。
「言いなりはいや」
「じゃあ契約はなしだ」
イルミはイルミの望む存在をつくろうとしている。それをたまたまそばにいたから、に要求している。
ただそれだけの話なのだろう。
「私、おばあちゃんみたいになりたいから、イルミの言いなりは、いや」
「あ、そ。じゃあ普通に明日から修行ね」
イルミはそう言うなり立ち上がり、早々に部屋を出て行こうとする。が口をはさむ暇もない。
けれどの視界から外れる直前、彼は振り返った。
「ああ、でもその家を誇って譲らないところは、認めるよ。」
は、思わずベッドから飛び起きて転がり落ちた。
その間にイルミはもう部屋を出て行っていたけれど。
「……はじめて」
初めて、イルミがの名を呼んだ日だった。
残念、とイルミはかけらも残念そうな様子もなく今日のことを祖父に伝えた。
「うちに害のない存在を一から育てる。それもまあ手の一つだよね。オレの手のかからない嫁って便利で」
「んではオウカみたいになりたい、か」
の一番の責任者は元々彼女の祖母と取り決めをしたゼノであり、イルミは時折こうしてゼノに報告をする。
先日のゼノの発言を受けてイルミは契約を持ちかけた結果を報告したところだった。
「イイ女になりそうじゃのう」
クツクツと、楽しげに笑うゼノにふうん、と適当な相槌を打つイルミ。
「ワシもたまにみてやるとするかの」
「……珍しい」
「まあたまには、の」
それからは時折、イルミのいない時にゼノが修行をつけるようになったとか。
(譲れないもの)