誰もが疑問に思っていることがある。なぜあの鉄面皮イルミが何のメリットもなしに弱い赤の他人を預かるということをするのか。
「なんであんなの保護することにしたの? しかも殺さず、なんてさ」
イルミがを預かって一週間は経った日のことだ。朝、出会い頭にイルミは相手を見るなりそう口を開いた。はいまだ夢の中である。起きるにはほんの少し早い時間のことだ。
イルミに任せることにしたのは今回は父シルバではない。
「ワシがあの嬢ちゃんのバアさんに借りがあってその対価じゃな」
「……で、オレ?」
「はお前さんが気に入ったというんだから。仕方なかろう?」
どこからどう見ても面白がって、そして自分の面倒を人に押しつけている祖父にイルミは無言。視線だけが祖父を射抜いている。
お堅いのう、とこの一家の中で変に軽い祖父は軽い笑い声をあげた。生涯現役。服に掲げる通り今日もゼノは仕事に行く。
「ワシとシルバは仕事で忙しい。キキョウさんに任せるにはちとなあ。かといって他の兄弟にそんなことは任せられん。お前なら適任じゃろ」
「執事にさせればいいのに」
適任とは何をもって言うのか、それを疑問視する人間がここにはいなかった。
ただの身体能力に関しては祖父・父・イルミの三者から及第点が出た。何を基準に及第点を出したかということはあるが、少なくとも才能もなく見込みもない少女に及第点など出さない三名だ。その点では多少鍛える甲斐はあるがイルミ自身が手ほどきする必要も特にない。
この屋敷に来た時点で一般人にしては高い毒への耐久性がありそこそこの身体能力を有していた点はゼノが懇意にしていた人間の血縁ではある。ただそれはこの家で優遇する理由にはならない。ひとえにゼノの一言が大きい。そしてその声の理由を家族の誰も知らない。ゼノは多くを語らない。もし知っているとすればシルバぐらいだろう。
「まあそれもいいがワシはあのバアさんの孫がどうなるかが見てみたいんでなあ。それなら身近に置いといた方が良いじゃろ」
「……」
どう考えても年長者ということを利用して祖父が孫に面倒事を押しつけている。
しかしゼノはうちで面倒をみろ、と言われたというのだ。ゼノ自身が、ではない。そしてこれは契約だとも。契約を違えるのはこの家では愚行と言われる。何を言ってもを受け入れているのは理由が不明でも契約履行であると言われれば家族はが害をなす存在でない限り強く出られない。
「オレがうっかり殺すかもしれないのに」
実際たった数日一緒にいただけでうっかり殺しちゃおうかなと彼が思ったこと数度。数度、未遂にも至らなかった時点でおそらく本当に殺すことはないだろう。イルミは本当にどうでもいい場合一日と言わず簡単に殺してしまう。
今の時点でという少女の利用価値は未知数。その点だけでも殺さない価値はあるのだ。
ゼノはイルミに彼女の家系についても、彼女自身についてもほとんど話しては来ない。イルミが調べるか自身にしゃべらせるか。調べずとも、必要最低限の情報だけで問題はない。ゼノは面白がっても家の害になることはしないのだから。
「殺すか?」
「まだいいや」
そりゃいい、とゼノは満足そうに笑って部屋の方へ戻っていった。朝の稽古の後だったらしい。
イルミは面倒ながらも今日は一日の面倒を見なければならない。それが、彼に与えられた今日のなすべきことなのだから。仕事は特に入っていない。
崖から突き落としても死んだりしないかな。
いつか弟相手に行った思い付きの修行を思い返してみた彼は早めの朝食に向かう。
朝の思いつきの通り崖近くで修行をさせてみることにしたイルミは朝食後、部屋にいたに会うなり自分についてくるよう一言言い放つと部屋を出た。部屋での滞在時間はわずか数秒。
は慌てて部屋を出て追いかけるがイルミの歩幅に土台おいつけるわけもない。廊下は走ってはいけないものだという考えがあるのか精一杯の早足で、どんどん二人の距離は広がっていくばかりだった。
イルミはそれに気づきながらも平気で歩き続ける。通りがかる使用人はイルミに頭を下げていく。顔を上げる頃に今度はが通るので使用人は再び頭を下げる。彼らにとっては家族に次ぐ客人に近い扱いである。
その途中、イルミが一回立ち止まった。そこにはゴトーの姿。
「あ、ゴトー、今日は外にいるから午後のお茶はなし」
「かしこまりました。……あの、様は?」
「後ろ」
後ろ、と言ってもすぐに追いつける後ろではなかった。ゴトーの目には早歩きをしながらこちらを目指すが見える。イルミは見もしない。
どうしたものか。ゴトーの目は明らかにそう思っているが葛藤して沈黙を選ぶ。しかし何、と尋ねられた時点で自分もまだまだだと、ゴトーは白状した。
「あの、随分と後ろにおられますね」
「廊下を走らないのはいいんだけど遅いよね」
この家の基準は一般よりずれている。しかしは一般的なレベルよりは上にいる。それでも遅いと言われるのは単にこの家にいる人間が化け物じみているだけともいう。それにの歩幅は子どものものだ。化け物じみた存在の、それも青年に近い存在の歩幅と歩く速さと比べるのは酷だ。なにしろ、彼は普段通りの速度で歩いているのだから。
ゴトーにはそれがわかる。彼は意識してこの強さを手に入れこの世界に居続けているから。生まれた時からそう育てられた彼らとはまた違う。その点ではに近い立場だ。
「僭越ながら申し上げます」
「うん」
「様はまだ歩幅がイルミ様と合いませんので、様に合わせるか、抱き上げるなどして連れて行くというのはいかがでしょうか。その方がイルミ様のストレスも減るかと思います」
ぽん。
ゴトーの言葉にイルミは右手の拳を左の掌に軽く置いた。なるほど。思いつかなかったよと。
その時点でようやくがイルミに追いついた。遅い、とイルミが一言感想を落とせばごめんなさい、と一言。
「じゃ、いくよ。夕飯は多分食べられる状態じゃないと思うからこれとオレと一緒で」
「かしこまりました」
いってらっしゃいませ。
ゴトー深々と頭を下げイルミとの出立を見守った。
だけが訳が分からない様子で、ただ一言、これじゃない、と抗議はしながらも去っていった。イルミの歩く速さはほんの少し、先ほどよりゆっくりになっていた。
「……どうかご無事で」
治療の準備もするべきか。
ゴトーは今日の予定を頭の中で訂正しつつ仕事に戻った。
「イルミ」
「なに」
「……なんで、」
「歩くの遅いだろ。合わせるなんて面倒だし。持っていった方が早い」
ゴトーと話しているイルミに追いついたがほっと一息ついたのもつかの間、歩き出してすぐに事態は一変した。すぐに歩き出したイルミと距離が開き始めたものの先ほどよりもその開きは緩やかだった。それでもやはり距離は開く。走ることもできないはとにかく必死で早歩きをするしかない。そう思ったところでイルミがくるりと反転するなりあっという間にの元に距離を詰めた。
なぜ、と思う間もなくその片腕に抱えられ、現在屋敷の外まで運ばれていた。そこそこのスピードである。
片腕にを乗せ半分担ぐような形だがイルミは平然と屋敷の外、森の中を進んでいく。は落ちないようにとイルミの首に手をまわしてしがみつくのに精いっぱいだ。ただそのおかげで彼女が小さくささやいてもイルミは容易に声を拾える。
「歩けるもん」
「遅い。非効率だから却下」
今日の予定は崖でやることなんだから。
崖という言葉には一瞬体をこわばらせたがイルミは気にもしない。
当然、彼女はその後崖に突き落とされ死ぬ気で這い上がることとなる。
「まあイルミ! のお洋服が!」
「ただいま」
「ただいまじゃないわ! これすっごくお気に入りだったのよ?!」
ずたぼろの服に擦り傷だらけのを抱えて帰ってきたイルミに居合わせたキキョウは金切声だ。の傍にかけよって見るも無残な服に悲鳴をあげている。
はごめんなさい、と一言。だいたいは崖から突き落とされた衝撃と登りながら再び落ちた時の衝撃でついたものだ。
「イルミ! 今度から訓練に使う服を用意しますからそれを使うようにしてちょうだいね?」
「わかった」
しかしに与えられた洋服というのは破ってしまった服と大差なく、イルミももどこがどう違うのかわからぬまま、訓練の時はその服を着るのだった。
(合理性の追求)