深夜、彼はある部屋の扉をノックした。時刻は深夜を回っており、他人の部屋を訪うには非常識な時間帯だったがノックをする常識は適用されたらしい。
返事があるとは思っていなかったのに、イルミは部屋の中で人が動く気配を感じてドアノブにかけようとしていた手を止めた。すぐに内側からドアノブが回され、ドアの向こうには寝ているはずのがいた。
「なんで寝ないの」
「……眠れないから」
イルミが世話をすると決まった日から、ゲストルームで過ごしていたはイルミの部屋とほど近い部屋を与えられた。曰く、面倒はきちんとみなければならないから。
この屋敷の中で一番弱いのは誰に問うてもこのという少女だという回答が得られるだろう。それぐらい、この少女は弱い。そんな彼女を一定のレベルのためにするためにイルミはまず毒薬に慣れるように非常に弱い、微量の毒を混ぜるところから始めている。そのためは顔色が悪い。しかしその不調は眠れなくなるようなものではない。むしろ寝なければイルミの考えている工程に支障が出るのだ。
彼女の部屋に入るなり問うてみればは存外素直に答えた。しかし理由がない。
「なんで」
「……」
イルミの問いにはすっと視線を下に落として黙り込んでしまう。
イルミも黙ってそれを見ていたがフリルのきいたパジャマの裾をぎゅっと掴んだまま、は動かない。さすがに業を煮やしたのか、イルミはわざとらしく溜息を落としてから口を開いた。
「あのさ、寝てくれなきゃオレの計画に支障が出るんだよね。殺しちゃだめだって言われてるからとりあえず殺さないであげてるだけだっていうことを念頭に置いてよく聞いてね。なんで寝ないの」
彼がの部屋を訪った今は午前一時。八歳の子どもが起きているにしては不健康な時間帯である。その時間に寝ているか確かめようとするイルミもイルミだが今回は功を奏した。
イルミが不機嫌なオーラを出した途端大きく体を震わせたはしばらくうつむいたままの状態だったが不意に動きだし、そしておもむろに手を伸ばした。
「ひとりで、寝るのは……こわい」
小さな手がイルミの服を掴んでいた。怖いもの知らずとはこのことだろう。少なくとも彼の弟たちは天地がひっくり返っても兄の服を握って弱音を吐くということはしない。
イルミはうつむいたままぽつりと落としてきた言葉を理解し、ふうんと一言。同情も侮蔑もない。単なる相槌。
「とにかく寝てくれないと困るんだけど」
「……」
ぎゅっと、彼の服を握る手が精一杯の主張をしている。
しかし相手が悪かった。これが他の人間ならば違う反応だったかもしれないが彼女の世話を任されたのはイルミで、彼女が頼るまずはじめの人間はイルミしかいないのだ。
振り払うこともできるけれどそれでもなお離そうとしないその手にイルミは視線を落とした。
「なに。言いたいことがあるなら言えば」
「あの、ね」
「早く言ってくれない? オレだって寝たいんだけど」
八歳相手に大人げないこと極まりないが彼にとっては至極当然のことだ。だがもこんな真夜中に、出会って数日の相手にあからさまに迷惑そうな態度に出られて萎縮してしまった。
それでも一応発言は待ってくれているらしく、黙っているイルミに対しはゆっくり、彼の顔を見上げて――
「ひとりは、こわいの。イルミ、と一緒に、が寝るまで、そばにいて」
彼にとっては『ひとりがこわい』ということは理解の及ばないことだったがの今の状態が何かに怯えているということはわかった。殺される前の恐怖とは別のものだ。不幸中の幸いで、知識としてイルミは一般的に人間は肉親を亡くすと哀しみ塞ぎ込むということを彼は知っていた。
しかし知っているだけで、彼はのこの願いがどれだけ切実か、どういう思いをしているのかを想像もできないし、想像しようと思ってもいないに違いない。が本当はイルミにどうして欲しいのか、言い直した前の願いを、彼は想像しない。ただ何かに怯える彼女を見下ろすだけだ。
目が合う。光のない闇とすみれ混じりの青が、交差する。
「そばにいたらいいわけ? よくわからないわがまま」
そう言って彼はすたすたとの部屋に無断で入っていく。いきなりのことに手を離したは次の瞬間にあわててイルミの後を追う。
にとっては広い部屋。ベッドは寝返りを派手に打っても床に落ちることがないであろうぐらい、広い。
「ほら、早く寝なよ」
ベッドの端に腰かけたイルミは毛布をどけてに寝ろと言っている。
はいそいそとベッドをよじのぼりぽすんと枕に頭を預けた。イルミはその体を毛布を被せた。
部屋の明かりが煌々と点いているがそれを消そうという気配もない。イルミはただ座ってベッドの真ん中でイルミを見るを見ているだけだ。
「……」
「……」
沈黙。
「寝ないの」
土台、彼にの想像する言動を期待しても芳しい応えが返ってくるはずもない。も薄々気づき始めたのか、こてん、とイルミの側に体を向けて、一言。
「一緒に、手、繋いで、寝てくれる?」
この世界で、イルミ=ゾルディックその人に一緒に手をつないで寝て欲しいなどと願い出るのは、いったいどれほどの数いるというのか。少なくともイルミはそんなこと人生で初めて願い出られた。残りの人生でも限りなくゼロに近いお願いに違いない。
命乞いなら耳にタコができるほど聞いてきた彼が、怪訝そうにを見下ろしていた。一見するとただ黙ってを睨んでいるようにも見える図だったため、は一瞬びくりと震えたのだが期待とおびえの混じったまなざしは続いている。
「それやれば寝るの」
「……たぶん」
面倒だよね、子どもって。
それを子どもの目の前で堂々と言い放ち怯えさせた後、部屋の明かりを消すと彼はやれやれとベッドに滑り込んだ。そして小さな手のひらを適当に握り、仰向けになって目を閉じた。
「何かしようとしたらすぐにわかるから」
「……なんにも、しないよ」
「まあしてもなんとでもなるけど。おやすみ」
あっという間のできごとだった。
は少しの間黙っていたがぎゅっと繋がれた手に力を入れ、自身も目を閉じた。
「おやすみなさい」
それはがこの屋敷に来て初めてゆっくりと眠った日だった。
「は?! お前兄貴と一緒に寝たの?!」
ぽよんぽよんとお腹を揺らしながらもミルキはたまたま見かけた居候に話しかけたのだけれどそこから目玉が飛び出るような話を聞いた。
当の兄は仕事で留守である。
「違う。寝るまで、一緒に、いた」
の言葉をミルキは聞いていない。十一歳の少年にとって得体の知れない兄が人のようなことをした事実に興味の全てを持っていかれている。ミルキも一般とは大きく外れた感覚の持ち主だが兄イルミが一線を画しているということは理解している。そのイルミがまともに、明らかに弱そうな人間を世話している。驚愕の事実である。
「……お前、案外化けるかもな」
ミルキはお菓子を食べながらそう評したのだがだんまりを貫いていたがそれに対して口を開いた。
「歩きながら、きたない」
そしてミルキが文句を言う前に逃げ去った。
ミルキの言う通り、屋敷の中でも言いたいことを言えるは大物になれるかもしれない。邸内を掃除していた執事はそのやり取りを耳にしながら黙って掃除を続けたのだった。
(眠れない夜に)