一ヶ月。
 たいした時間ではない。彼には仕事と弟の教育と日々の鍛錬と、やることは終わることなく続いている。
 ただ、ここ一年スケジュールに組んでいた少女の修行用の時間だけはきれいに空いて、イルミはその分自分の訓練や仕事に必要な知識を習得するためにあてていた。
 いなくなれば有効活用できる時間が一年前のように戻ってきた。
 イルミにとってはそれだけだったし、彼は淡々と日々を送り続けた。

 の所在地は早々に発覚した。というよりはの家から連絡が入った。現在は自宅に滞在中なので本人の意思で帰るか、ゾルディック家からの迎えがない限りは家で預かっておくという連絡だった。
 一年間、ゾルディックも預かった責任から家を狙う人間に注意を向けていたが、危険な面々は現在活動を控えており、孫であるにまで狙いをつけている人間は少ない。そのため、家としては本人の意向を尊重する、という結論に至った。
 ただこの件の責任者であるゼノは一年間直接を世話していたイルミに限って、どうしようと自由だと、イルミ本人に言った。

「じゃ、行ってくる」

 そのイルミは特になにをするわけでもなく、今日も仕事をこなしている。誰もそれに何も言わない。ただ時折、ミルキだけが意味深にイルミに視線を送ることはあるがそれだけだ。の世話を中心的に行っていたゴトーですら、のいなくなった後、少なくともイルミの前では何か違和感を覚える行動を起こすことはなかった。

 ゾルディック家の仕事は暗殺だが、暗殺とひとくくりにしてもその仕事は多岐にわたる。
 ターゲットが個人の場合もあれば一族郎党すべての場合もあるし、大事なのは場所であり、その場に居合わせた全員がターゲットの場合もあった。明らかに暗殺されたとわかるように殺しを指定されることもあれば、強盗に襲われたようにカモフラージュするよう指定されることもある。
 ゾルディック家はそのすべてを確実にこなす。どんな依頼であろうと、受けた以上はそれを全うするのが彼ら殺し屋一族だった。
 その分一般的な金銭感覚からすれば法外に過ぎる値段を要求するが求められるどんな無茶も検討し、条件付けをし、そして実行する。

「本日は依頼主の政敵がターゲットです。今夜確実に殺すこと、屋敷内の使用人及び目撃者は殺すこと。方法などは問わないそうです。なお、能力者は屋敷内には現状確認できません」
「ふうん。楽な仕事だ」

 道中の共は飛行船を運転する執事とお目付け役が一人。仕事の概要を説明したのがお目付け役だ。イルミは一人前に近い仕事をするがいまだ一人前と当主であるシルバに認められてはいない。まだ彼はゾルディック家の護られるべき子どもの範疇にいる。
 イルミが好んで使う飛行船は豪奢な設備は何もない。必要最低限の機能と移動時間中座ってくつろげるスペースがわずかにあるだけで機能性を重視したつくりだ。
 イルミの趣味ではないだろう赤い絨毯と白いソファだけが飛行船の中ではやたらに華美だ。
 イルミはあるから使う、といった体で、その割にその白いソファにすっぽりおさまって、馴染んで、まるで彼のために誂えたかのようなソファに変身させてしまうのだから性質が悪い。本人に自覚がない分、余計に。

「寝るから、着いたら教えて。じゃ」
「はい。失礼いたします」

 執事が部屋を去った後、イルミは目を閉じることなくただじっと目の前の壁を見ていた。必要な知識を得るために本を読むこともなければ弟の暗殺者への育成計画を考えることもない。ただ、じっと壁を見ていた。まるでそこに何かあるように。
 何もない。壁に何か物珍しい絵が飾られているわけではない。白い壁がただそこにあるだけだ。
 ここ数日、彼は一日にほんの数秒、何もしないことがあった。誰もいない時、仕事をしていない時、その瞬間は彼だけが知っている、彼だけの空白だった。
 それでも、彼はそれがなんなのかを突き止めなかった。何事もなかったかのようにすっと目を閉じ、意識を闇に浸した。





 豪邸だった。ただ金と権威を前面に押し出す性格ではないらしい。屋敷の主はさりげなく、しかし同じ階層の人間が見れば唸るほどの素材でその屋敷を作り上げていた。
 敷地は数メートルある壁で囲われ、正面の門は細工の入った飾り門である。そこから正面の屋敷までは左右対称に庭園が広がっている。子どもの遊び場としての庭でもあるのか、どうやら迷路仕立てになっているらしく、車から見える花壇の向こうは手入れされた植物が壁になって奥が見えない。ただ、そのさらに向こう側には背の高い木々が植えられており、昼間ならばその青々とした葉を風に揺らしている様を見られるようだった。
 赤い煉瓦造りに群青の屋根の下には日ごろどれだけの人間が働いてこの屋敷の見た目と生活を保っているのだろうか。随分と多くの人間が関わっているのだろう。

 ただ、この日屋敷は静かだった。ほとんどの使用人は休みを言い渡され、必要最低限の人数だけが屋敷に残っている。それも長年勤めている年老いた使用人ばかりだ。
 依頼人はこの日屋敷が沈黙したかのように息をひそめることを知っていたのだろう。ゾルディックの腕を信じないわけではないだろうが、保険をかけたのだろうか、邪魔者はいない。
 イルミは執事たちを置いて平然と監視カメラの死角から屋敷内に入った。何のためらいもなく、裏手の入り口から室内に移動する。何の音もしない。何の気配もしない。視界に入るまで彼はいないも同然だった。
 それでも入った場所は使用人たちが出入りする勝手口だ。その場には老婆が編み物をしていた状態でうつらうつら舟をこいでいた。彼は躊躇いなく針を投げた。老婆は船をこぐことを止め、首を深く落とした。

 ひとり、ふたり。針を何気なく投げれば、投げられた方は糸が切れた人形のようだった。悲鳴を上げる暇もなく、ぱたり。ころり。ひとつ、またひとつ。ただでさえ静まり返った家がさらに静かになる。
 依頼主によれば残っている使用人は五人。物言わぬモノと成り果てたのは五体。残りは屋敷の主のみだ。イルミは躊躇いなく執務室のドアを開けた。

「ノックのひとつでもし」

 顔を上げ、たしなめるような言葉を口にし、そういう表情を浮かべていたはずが突然の感覚に疑問符を浮かべかけた時点の、何とも奇妙な表情で男は事切れた。頭が支えをなくし前のめりに倒れた。額に刺さった針が机にあたった瞬間ぐいとのめり込む。イルミはもうすでにその時点で男に興味をなくしていたが死亡を一応確認し、くるりと部屋に背中を向けた。

「……」
「っ」

 テディベアを正面に抱き、焦げ茶のうるんだ瞳でイルミを見上げてきたその少女は淡いピンクのワンピースに赤い靴を履いていた。ターゲットの娘だろう。上質なものに身を包まれ、背中まで伸びたストレートの髪の毛は手入れが行き届いており艶があり櫛は止まることなく通るだろう。
 気配が消えないと思っていた、その最後の気配の持ち主だったらしい。ターゲットは妻を亡くし年幼い娘が一人いるとあった。ひゅっと空気を飲み込んで、イルミの向こうにある景色を目を見開いたまま見続けている。
 そのうちかたかたと震え出し、口を開こうとするのだが浅い吐息だけが繰り返される。テディベアを抱きしめる腕は強張り、縋っているようだった。

「……運が悪かったね」

 そう言って彼は己の持つ針をすぐに投げようとしたのだが、不意にその手を止めた。
 そこでようやく身の危険を感じた少女が走り出した。足音がほとんど響かない絨毯の上を、必死に。それでも、イルミが歩いて追いかければあっという間だった。必死に逃げるのだが混乱しているのか足元が覚束ない。まっすぐ走れず、廊下に置かれた台に派手にぶつかってこけた。飾られていた花瓶がその拍子に落ち、割れた。水が絨毯にしみ込み、割れた花瓶のかけらのまわりに花が散乱する。
 なんとか立ち上がって逃げようとするものの、背後の相手に距離を詰められたことに気付いた少女は歯を震わせた。その腕はなおもテディベアを抱きしめている。捨て置けば、ほんの少し速く走れただろうに、少女はそれをしなかった。もう、逃げる気力すらない。ぼろぼろと涙を流しながら何度も頭を振った。
 そのまま何もできない少女を見て、イルミはその距離を縮めたかと思うとすぐに通り過ぎた。針を投げなかった手が瞬きの間に動き、少女の胸に穴をあけた。

「ぱ……ぱ」

 軽い音がイルミの後方足元から聞こえる。
 やわらかな廊下の絨毯に倒れた少女の胸元からじわじわ、赤が滲んでいく。元から赤い絨毯がもっと濃い赤に変わり、その中心の少女の髪を、服を、染め上げる。
 イルミは数秒、振り返って足元の光景だけを見る。少女のことを見ていたかと思えばその視線はすぐ近くの、散らばった花に注がれていた。
 白いカラーの花が飾られていたらしい。少女が倒れた際にそのうちの一本が半分下敷きになり、花の部分が半分つぶれていた。そして彼女の血が花瓶が落ちた時についた水滴に滲んでいた。薄赤い水滴の向こうに白が見える。

「……」

 イルミはもう数秒、そのつぶれかけた花を見つめていたが、すっと視線を上げると何事もなかったかのように歩き出した。

(空白の行く先)