その屋敷は首都から車で一時間ほどの郊外にひっそりと建っていた。不便な土地で、周りには店も何もない。その屋敷と草地が続く場所た。
海にほど近いその家は蜂蜜色の石と赤煉瓦でつくられた家で、正面から見ると窓がいくつも並んでおり、その手前には屋敷と同じぐらいの面積の庭がある。屋敷の入り口のすぐ目の前には噴水がある。そして門から屋敷の入り口まで続く道の脇には向日葵の花が伸び伸びと育ち、黄色い花を咲かせている。
「おや、お嬢さんじゃないですか!」
大きな門をくぐって玄関を目指すイオに話しかけてきたのは麦わら帽子を被り首もとには真っ白なタオルを巻いた庭師の男だった。向日葵畑から現れたその男の帽子から見える髪は白髪混じりでだが背筋はピンと伸びているし、こんがりした肌は健康的で、何よりその笑顔がくしゃりとしわがたくさんできるのだが、年老いたというよりはその人生を楽しんできたことがわかるようなくしゃくしゃな笑顔で、太陽の下で見るにはよく似合う、そんな笑顔だった。
イオは声に気づくとそのまま走り込む。向日葵の合間に見えたその男にそのままぎゅっと抱きついた。
「ただいま、レオ」
「はい、おかえりなさい」
軍手をしていたレオはすぐに軍手をはずすと右手でイオの頭を撫でた。約一年ぶりのお嬢様は背も伸びたし、表情も少し大人びていた。
それでも相変わらずかわいらしいコーディエライトのお嬢さんであることは変わりない。レオは離れたイオに手を差し出した。
「中でベティさんがお待ちですよ」
「ベティは、いつもどおり?」
「はい、いつもどおりです」
レオの言葉にイオはにこり。飛行船に乗ってから家の敷地に入るまで、イオはずっと緊張しっぱなしだった。飛行船に乗っている間は子ども用チケットを取っていたため問題なかったが、降りてからは一人でタクシーを呼び、ここまできた。
「レオ、タクシーの人にお金を払わないといけないの」
「じゃあ僕が払ってきましょう。ベティさんは今はご自分の部屋にいると思いますよ」
レオはイオのために扉を開けてからすぐに財布取りに行くとそのまま外で待つタクシーの元へと歩いていった。イオがありがとうと言えばにこにこと、当然のことですと歩いていった。
部屋は五室、応接間に居間に書庫もあるこの家は昔貴族の別荘だったらしい。それをイオの祖母、オウカが買い取り、改修し今の屋敷になった。
一年前と変わりない家の中をイオは慣れた様子で歩んでいく。ベティがいると言われた部屋は二階の奥だ。部屋の前でノックをしようと腕を上げればその前にドアは開かれた。
「おかえり、イオ」
「ただいま、ベティ」
出迎えたのは女性だった。透き通るような金の髪、晴れ渡った空の色をした瞳、唇は化粧もしていないのに血色がよくつやつやとしたピンク色だ。服装は黒のタンクトップにジーンズという、容姿を活かす気のない格好だったが、イオにとってはそれが普段のベティだった。
レオと同じようにベティにも抱きつくがベティは素早く目線を同じ位置に落としぎゅっとレオよりも強くイオを抱きしめた。
「相変わらずオウカに似て美人ね」
「ありがとう」
ベティのこれは家を空けると必ず言われる恒例の挨拶なのでイオももう何も言わずただ笑顔でお礼を口にする。
おいで、とベティは部屋を出て居間にむかう。歩幅はイオに合わせてくれていて、イオはここ最近は早歩きや抱きかかえらえるのが常だったことを思い出して、ほんの少し目を伏せる。
居間はテーブルにソファ、その足元には赤地に刺繍の施された絨毯がさりげなく敷かれている。今に入ってすぐ目に入る壁は暖炉があり、その上の壁面には向日葵畑と少女の絵が飾られている。側壁にはイオやオウカたちの写真が何枚か飾られていて、棚にはアルバムが仕舞われその棚の上にはミニチュアの車やよくわからない置物がある。
忙しいと、居間には時計が置かれていない。オウカの主張で、食事をしている時は時間など気にしないのがこの家のルールだった。
居間に入ろうとした時に続き間になっているキッチンからひょいとレオが顔を覗かせてきた。シューシューと、キッチンでお湯が沸く音がしている。
「ベティさんにはコーヒー、お嬢さんにはオレンジジュース、用意しますね」
二人とも、イオが一年近く前にこの家を出たときと何ら変わりなく、まるで昨日少し人の家にお泊まりに行って帰ってきたところを出迎えるかのように、何も変わらなかった。
イオはベティと向かい合う位置に座り、レオがテーブルに置いたオレンジジュースを飲んで少しそわそわしていた気持ちが落ち着いた。それからほっと息をついた。
レオは飲食物に毒を入れることはしない。ベティはオウカの真似をして気まぐれの遊びとして軽い毒なら平気で入れてくるが今日はレオが用意しているので普通の、果汁100パーセントジュースだった。そのことにほっとしたのだ。
「じゃあ僕は庭に出てますね」
二人の飲み物を用意したレオはにこにこ笑いながらあっさり出ていった。
イオは首を傾げていたがベティは笑っていた。
「レオはオウカの死んだ時の話は聞かない、って決めてるんだって」
「……」
「レオは私よりも時折過激だからね。殺した相手を呪いかねないって笑ってたよ」
レオもベティもイオの家族ではない。赤の他人だが、オウカのいない間この家で一緒に暮らしていた二人だった。二人がいたからイオはオウカがいない間もこの広い屋敷で寂しい思いをせず、オウカの帰りを安心して待っていられた。
オウカが死んだときもすべての手配をしたのはベティで、レオは呆然とするイオのそばにずっと一緒にいてくれた。
ベティの言葉で、笑顔で、イオは気づいてしまった。
「知ってたの」
「知ってた。でも知らせないって、オウカと約束をしていた。レオは、知ってるけど、知らない」
イオは飛行船に乗る前、この家に電話をかけた。帰ると、言葉少なに伝えただけだ。帰ってくる理由は言わなかった。でも、予想はついていたのだろう。イオは滅多なことで約束したことを投げ出したりはしないから。
「帰ってくるとしたら、まずそれだろうって、オウカも話してた」
「おばあちゃんは、知ってたの」
疑問にも、確認にも取れるイオのつぶやきにベティは苦笑いだった。ベティ自身、一年経ったから落ち着いているが、聞いた当時は理解できなかった。
「オウカは薬師だった。救うことも、殺すことも、してきた」
「……うん」
自分の祖母が人を殺すために薬を使ったことを、イオは知っていた。大事な話だと、イオはオウカとこの話をしていたから。
「イオ、私は人を殺してきたこともあるし、人を助けようとしたこともあるわ」
イオの、すみれの混じった青色の瞳をまっすぐと見つめるのは濃紺の瞳だ。同じ目線の高さで、イオにはその瞳がはっきりと見えた。
落ち着いて静かに話しかける祖母はただ淡々とその言葉を紡いでいた。そこに悔いも誇りも何もない。今まで行ってきたことをただ、彼女は口にしていた。
オウカの言葉にただじっと耳を傾けていた。
「だからね、イオ。私は突然殺されても、誰も恨まない。それだけ、私は人の命を奪った自覚があるもの」
「……でも、おばあちゃんが死ぬのは、いや」
唇をかみしめながら話を聞いていた孫が必死に口にした言葉にオウカはほほえんだ。慈しみ、愛おしみ。
その話をしたのは居間だった。そのときもイオはオレンジジュースをもらって、オウカも一緒にオレンジジュースを飲んでいた。
オウカが死ぬ前、最後にバーネスの花祭りに行ったすぐ後のことだった。帰ってきたオウカは話をしましょうと、居間にイオを呼んだのだ。
「イオが悲しんでくれるのは、とても嬉しい。けどね、それで恨んでは、だめよ」
「……」
「私は過去行ったことを、忘れないわ。でも、私は仕事を完遂して、そのことを恥ずべきことだとは思っていないの」
人を殺すことは悪いことだ。
イオの中に当然のこととして根付いている意識だ。
しかし、両親が死に、オウカのそばで暮らしていて感じたことも、イオの中にはある。
人を自らの感情ではなく、仕事として殺す人間もまた存在していることを、それが、その人たちにとって誇りだということを、イオは知った。
「恨まれることも、狙われることも、承知で私は仕事を続けてきたのだから、怨恨にしろ、何にしろ、殺されたとき文句は言わないつもりなのよ」
「……」
「でもねイオ、私が生きることを望むことはそれとは別よ。私は最後まで生きることを諦めないわ。それは、私の自由ですからね」
泣きそうな顔をするイオをオウカは優しい腕で抱きしめた。
それがイオとオウカとの最後の記憶だった。その後彼女はいつものように家を出て、そして帰ってこなかった。
「ゾルディックに狙われたって、連絡を入れてきた。もし、死んだらゾルディックにイオを預ける、とも」
「……」
「私もレオも、イオが好き。でもね、イオを一生守れるわけでもない。ゾルディック家に頼むような連中から守れる自信も、なかった」
イオにはベティの言いたいことはよくわかった。
ゾルディック家の人間は強い。とんでもなく、強い。実際に目にしたからわかる。ベティもレオも、戦うことは好まない人で、もしイオが狙われることがあってもゾルディック家ほどでなくとも、勝てないだろう。
「世の中にはね、その人だけでなく、その人の周りすべてを不幸にしなければ気が済まないいやな人間がいる。オウカは、そんなやつらにイオを奪われたくはなかったんだ」
だからといって普通は自分を殺した暗殺一家に大事な孫を預ける人間はいない。
しかしオウカはゼノと旧知の仲だった。だから、知っていた。
「ゾルディックは、殺人狂ではないって、オウカは自信満々に言ってたよ」
ベティは何度も反対したのだろう。オウカの大事なものはベティの大事なもの。ベティにとってはイオはオウカの大事な忘れ形見で、そして一緒に暮らした大切な存在だった。
でも預けられたイオもオウカの意見は理解できた。オウカとゾルディックは同じだ。彼らは、家に対する誇りを失わない。依頼をもって仕事を行う。私情は挟まない。ただ暗殺一家としての誇りを持って依頼を完遂する。
少なくとも、イオが垣間見たゾルディック家の人間は人の生死への観念こそ違ったが覚悟と誇りを持って生きていた。
「まあ、どうあれ戻ってきたんだ。好きなだけここで過ごせばいいよ」
イオの頭を撫で、ベティは優しくほほえんだ。金の髪がさらりと揺れ、窓からはいる光に揺れる青の瞳は息をのむほどに儚く美しかった。
イオは小さくうなずいて、窓から見える向日葵畑をじっと見つめていた。
(覚悟と自由)