「人混みで生き抜く訓練」

 というイルミの発言があった日からはゾルディックの屋敷から出てククルーマウンテンふもとの街やパドキア共和国内の街で実地訓練を積むようになった。
 たとえばターゲットを決めて相手に気づかれないようにビー玉を入れるとか、家路につくまでつけるとか、ランダムに選ばれた相手に対して尾行とちょっとした仕掛けをする。この訓練はイルミがいる時だけ行われる。週に一度あるかないか。それが何回か。
 照り輝く太陽はもう、夏に近い。

「じゃあ今日はおにごっこで」
「……おには、」
「オレ」

 最初から詰んでいる。
 しかしイルミは範囲とタイムリミットを指定して一分待つから、とすでにカウントを始めていた。
 は反論するのも諦め走り出した。とにかくイルミから距離を取りいかに人ごみを利用するかが鍵だ。ひらひら。髪飾りのリボンが揺れながらイルミから遠ざかっていった。
 なおイルミ個人の条件は人を殺さない、針をへの威嚇以外に使わない、である。半分以上は遊びだったが殺さない方が技量を必要とするので多少は彼の修行も兼ねている。

「この後はどうするか」

 身体的な訓練については後はもうひたすら磨いていくしかない。日々の鍛練が窮地を救う。ただ愚直なまでに鍛え続けるしかない。
 もう一段階凝った修行をするならば本格的な念能力の修行だが、少々彼女には早い。
 この地道な訓練もまだまだ続くので彼はもう少し後でいいかと、思考を切り上げる。

「さて、行くか」

 きっちり一分。さあ行くか姿を消した方向へと駆けていく。しかしそれ以上はさすがのイルミも円で気配を拾いきれないのでミルキが最近作ったという発信機を片手に持っている。

「……ん?」

 しかしひょいと見た発信機が、なぜだか反応していない。画面に映るはずの光る点が見当たらない。
 すぐに携帯で見張りにつけていた執事に連絡をつける。連絡がつかない。

 その後、執事は電話を手にこと切れた状態で見つかり、は姿を消していた。
 残ったのは真っ白なリボン。ひらひらと揺れていたそのリボンが地面に落ちていたことだけが、がそこにいた証だった。




「そんなに警戒しなくても、食べたりなんかしないよ?」

 ふふっと笑う相手にはできる限り距離を取って逃げようとしたのだがなぜか身動きができなかった。ただじっと、座ってスカートをぎゅっと握りしめるしかにはできなかった。

 何が起こったかわからないぐらい早く、は身動きが取れなくなっていた。とにかくイルミの視界から一端消えようと路地にふっと曲がってみればなぜか曲がった直後真上から人が降ってきた。そしてその相手はが気づくよりも前にを抱きかかえ、威圧的な雰囲気を醸し出しながらとても優しそうにへ微笑みかけた。
 はその間ずっと逃げようとしたのだがなぜだか相手の腕から動けなかった。身じろぎはできてもなにかがくっついているようで、離れられなかった。
 そうしている間にばさり、また真上から人が降ってきた。今度は、それは着地せずに地面に叩きつけられ、そこからじわりじわり、血だまりができあがっていったので、はそれが死体だと、血が広がるスピードと同じスピードでじわりじわりと理解していった。そしてそれがを抱えていた相手が右手で殺したのだということも、死体から目を離し、相手を見上げた瞬間、理解した。
 にやりと、心底楽しそうに笑っていたから。

 万が一、自分が敵わないと思った敵に会ったら逃げること。逃げられないならとにかくじっと黙って逃げる機会をうかがうこと。
 が万が一の時にどうするか思い出せたのはこれだけだったがは相手と目を合わせた瞬間からわかっていた。
 目の前の相手はイルミと同じぐらい、強い。

「あなた、なに」
「良い質問だなあ♦ そういうの、嫌いじゃないよ♥」

 路地裏からあっという間に目の前の男は移動し、今は裏路地の建物の地下にある小さなカフェにいた。
 我が物顔で男は奥へ奥へと進み、くすんだ金のドアノブを開け、小部屋にを連れてきた。
 円形の部屋だった。床はワインレッドの絨毯が敷かれ、壁は深い青色から天井に向かうにつれ真っ黒になり、黒くなるにつれて黄色や白、オレンジなど色とりどりの星マークが散りばめられていた。天上は格子とその向こうに星空の絵が描かれている。窓もないのに壁には窓の絵が描かれ、そこには本物のレースのカーテンがかかっている。中央には木製のテーブルにセットの椅子。テーブルには真っ白なテーブルクロス、上には既にポットとティーカップが用意されていた。
 をここまで連れてきた男はを椅子に座らせた。そして笑った。お茶にしようかと。
 頬にはペイント、身にまとう衣服はまるでサーカスにいる、そう、彼は道化師のようだった。
 は道化に招待を受けた真っ白なドレスのお人形。お茶会は幕を開けたばかり。

「……」
「そんなにコワイ顔しないでほしいなあ? ボクはヒソカ♦ キミは?」
「……、
だろう? ちゃんとフルネームで名乗らないとね♥」
「!」

 ほら、お茶を飲んで?
 道化は優しい声でお茶をすすめる。優しいけれど、黙りこみも無視も嘘も、何も許さないその目には半分睨みながらお茶を口にした。良い子だねと、道化は、ヒソカは笑う。

「どうしてって名前を知っているかって? そんな顔をしてるね♣」
「あなた、」
「ヒソカ♥」
「ヒソカは、」

 そのまま言葉を続けようとしただったが依然としてただ微笑み続けるヒソカを見て一度口をつぐんだ。ヒソカは、黙って続きを待っている。
 道化に似合いのこの部屋は他の誰をも寄せ付けないような異質な空気を持っていた。部屋で自由に動けるのは道化ただ一人だと言わんばかりに、には迫るような色と配置だった。

「私を連れてきても、なんにもない」
「そうでもないんだよね、それが♦」

 彼もまたティーカップを手にし紅茶を口にする。
 同じポットから注がれたお茶。それを彼は笑顔で口にした。それでも、は油断しない。彼が薬に耐性を持っているならば紅茶は脅威でもなんでもないのだから。だけが、耐性を持っていない、そんな薬を彼が持っていれば、この紅茶は十分な意味を持つ。

「だって、オウカの孫で、イルミの最近のお気に入りだろう?」

 それだけで、はとっても面白いんだよ。
 目を細めて、口の端をゆがめて、目の前の相手をなぞるように見つめる。
 はその瞬間椅子から飛び上がってすぐに部屋を飛び出し建物から逃げ出したいぐらいの感覚を味わった。悪寒と言えば早いがそんなに一言で片づくようなものではない。悪意と興味とからかいと、いろいろなものが混じってはいたが良いものではなかった。イルミが本気で苛立った時一瞬見せる気配と似ていたがもっと性質の悪い、まとわりつくようなものがの目の前にあった。背中の汗で服がべったりと張り付いてくる。

「帰して」
「イルミのところに? 良いの?」

 にやり。そこにあるのは悪意だけだった。純粋な悪意のかたまり。

「本当に? 、知らないの?」
「……帰して」

 道化はその時悪魔だった。優しい声で、悪魔は囁く。

「物好きだなあは♣ ――だって、祖母の仇の元に帰りたいって言うんだからさ?」

 何を言ったのか、理解できなかった。それなのに呼吸ができなかった。ただ笑い続ける相手を見つめるだけ。ぎゅっと握りしめていた拳の力が抜けていく。

「イルミ=ゾルディックはオウカ=を殺した♠ 紛れもない真実だ♦そうだろう? ――イルミ」

 振り向いた先にあったのは、漆黒の瞳。
 瞳は否定をしなかった。ただ黙って、そこにいた。

(答え合わせ)