たまに聞く尊い身分の人の話は毎日を一生懸命に生きる彼女にとっては遠い話で、偉い人も大変なものだと感じるばかりだった。
 そういう毎日は何気なく続くものだと思っていた。続くはずだった。




 彼女の元の生まれは大層なものではない。橿原の宮で仕えていたといっても下女であり、とてもではないが位の高い人々とはすれ違うことすらもない、そんな立場だった。
 だが運命というものは皮肉なもので、彼女の誇りであった橿原の宮が常世の国によりその麗しき姿を失うことで、彼女は本来ならば関わることのなかった世界へと近づいた。
 宮を逃れ、わけがわからないままに流れに流れ、寄る辺のない彼女はそのまま西へ西へと逃れる兵たちの中に紛れ、ひょんなことから岩長姫の目に留まり、そのまま彼女の傍仕えとなったのだ。

「不思議なことも、あるものですねえ」
「何がだい?」

 五年。それは何もわからぬ子どもだった彼女を大人にさせた。どうにかこうにか生き残り、良い人たちに囲まれ、守られ、彼女は過ごした。
 いつかいつか。
 行方知れずとなっていた王族の戻りを待ち続ける日々は時に不安を生んだが彼女たちには岩長姫がいた。将軍と慕われ、頼られる彼女は部下から諌められることもあれどやはり彼女が前に立つだけで安心できた。その背中を信じることができた。だからこそ、橿原から遠く離れた土地でもみな頑張れたのだ。
 そうしていつか、と期待しあきらめつつもどうしてもあきらめきれなかったその光はやってきた。
 稲穂が日を浴びるように、眩しいというよりもあたたかく、胸をしめつけるようなやわらかな光と、森の奥にたゆたう澄んだ泉の色を持ち、希望は現れた。

「私が、姫様のご学友と似ているってことです」

 岩長姫の傍仕えという名の見張り兼お世話係の彼女のやることは存外多岐にわたる。なにせ主人が主人なので世間一般の傍仕えが行う身の回りの世話など彼女は一人でこなしてしまう。食事の用意と洗濯と客人の対応ぐらいは任せてくれるがむしろ他の用向きを言い渡されることのなんと多かったことか。伝令に走らされたり兵士の世話を見たり、医者の小間使いをさせられたり、倉庫番の手伝いや帳簿係の手伝いなど、いったい何をしているのかわからなくなることが多い五年だった。
 ただそうして鍛えられた雑用の技能は豊葦原に舞い戻ってきた姫将軍、二ノ姫の活躍が広がるにつれ役立っていった。
 好きに使えばいいと岩永姫から放り出された彼女は兵士の名簿管理や兵糧管理や諍いの仲介や要人の言いつけ対応に奔走した。それはもう、ありとあらゆる雑用らしい雑用を押し付けられた。というよりは文官に近い立場の人間が少なすぎたというのが実情だろう。使えるものはなんでも使えという雰囲気だった。
 そうして走り回れば成り行き上、寄せ集めのような豊葦原の軍の要人とも顔見知りになっていく。なにせ、慢性的な人材不足なので。
 そうやってあちらへこちらへひとところにいない彼女を見て初めに呼び止めたのは二ノ姫と共に現れた鬼道使いの少年で、彼は彼女を知らない名で呼んだ。

「ああ、姿を隠していた時期に学び舎にいたっていう」
「はい。瓜二つ、らしいです」

 初めて目が合った瞬間の鬼道使いの顔を、彼女は覚えている。そして後からわかったことだが、彼は最大限に驚いていたのだとも。あれ以降、彼のあんなに驚いた顔を彼女は見たことがない。

「同じ顔の人間って、いるものなのですね」
「……そういうもんかね。まあそういうこともあるんだろうさ」

 だから、彼女にとってそれはほんの少しだけうれしいことで、いわゆるただの偶然だった。それ以上でもそれ以下でもない。
 ただ、豊葦原を離れていた三人にとってはそうではなかった。それを本人たち以外は知りえなかっただけだった。



*



 敵だ敵だと叫んでいた常世の皇子が味方になるわ神を相手にするというわ、雑用をこなし続けていく中でも二転三転する二ノ姫の旅は時を経るごとに大事になっていった。
 戦のことも政のこともおよそ民と同じ程度にしか知らない姫将軍はこの大勝負を前にしてもまだ頼りないところはあったが彼女を呼ぶ声は輝きに満ちていた。前を進むことをあきらめずに進み続けた黄金の光に人々はあきらめなかった。
 もう、あとは二ノ姫に託すだけだ。今までのすべてを。
 仕事を終えて、あとは明日に備えて寝るだけだったが彼女は妙に落ち着かずに眠れなかった。ふらり、船内を歩き、外の空気を吸おうと片庭へ足を運ぶ。
 そうして出た空中庭園では夜の闇にも負けない月夜の光がいた。

「ニノ姫?」

 月光を浴びた乙女は儚げで、今にも光に連れられてしまいそうな薄さを見せたが彼女が声をかければその姿は途端に現実となった。
 一瞬目を丸くし、そして何事もないように微笑んだ。彼女の知るニノ姫。うるわしの姫将軍。

「    」

 小さく呼びかけられた名前の意図するところを、彼女は知っていた。

「千尋様」

 一度でいい。千尋様と、呼んであげて欲しい。
 それはニノ姫に従う風早にお願いされたことだった。
 「これはいつも気兼ねするけど、俺はいつも結局は千尋の味方で、そのためになら誰が相手でも躊躇わない、そういう存在なので、だからお願いします。彼女を「千尋様」と、一度だけでいいから、そう呼んでください」
 彼の発言にはいつも謎かけのようなところがあり、その度に彼女は首を傾げることばかりだったが旅の終わり、たった一人きりの乙女の姿はその約束を果たすにはこの上ないチャンスだった。
 そうしてその名の意味するところは儚げな姫の泣ききれない微笑だ。

「ずっと、ごめんねって、言いたかったの」

 鬼道使いが呼ぶ名を彼女は耳にしたことはなかったが、ニノ姫が今呼んだ名を彼女はよく知っていた。だから、風早に頼まれたお願い事が頭をよぎり、頼まれた名前を紡いだ。美しき姫の名を。
 彼女が、風に乗せて呼んだ名前は彼女自身の名前ではなかったけれど、それは寄る辺のない彼女の唯一の家族の、同じ顔を持つ姉の名前だったから。

「忘れてて、ごめんなさい」
「姉は、姫様のおそばを離れなかったですか」

 葦の、日に照らされて黄金色になるのが大好きな姉は持ち場の取りまとめ役の不興を買いそれが巡り巡って周りに疎まれる仕事を回されることになった。
 それは宮の中で隠され、なきもののように、見えないように、隅に置かれていた幼い異端の姫君の身の回りの世話だった。
 最初は落ち込み、不安を見せ、不満を持っていた姉が目を輝かせて彼女に会いに来たのはしばらくしてからのことだった。
 大好きな葦の黄金を持った姫様だったと、姉は心底嬉しそうに語った。

「……風早と私だけの時、それも風早が私から少し離れている時だけ、千尋様って名前を呼んでくれるその子を、私はとても好きだった」

 どうして忘れてたんだろう。
 滲んだ瞳は夜の闇でも揺らぎがわかった。浮かべる笑みはぎこちない。
 時折視線を感じるのに振り返ると何もない。

「貴女にそっくりなクラスメイトがいたの。仲良くする度、風早も那岐もあまりいい顔しなかった。とっても素敵な子なのに」
「……」
「でも、その子、きっと貴女のお姉さんにそっくりだったのね。だから、私、気になってたのね」
「覚えていて、くれたのなら、姉はきっと、これ以上のない喜びだったと思います」

 あの日、宮が落ちた日、彼女は姉と別れたきりだった。そしてそれが永遠の別れなのだと、多くの者がその日味わった別れを彼女もまた静かに受け入れた。
 だけれど姉が仕えた人が目の前に現れ、そして姉とそっくりの自分を見て少し不思議そうな顔をするだけでいるのが悲しかった。尊き人にとっては下女のことなど大した記憶ではなかったのだろうと。姉は、あんなにも姫を慕っていた姉は、姫にとってはただの傍に仕える人間の一人だったのだと。

「私、忘れていいわけなかったのに」
「それが二ノ姫の辛い記憶も思い出させるのなら、姉は忘れていていいと、言うと思います」
「でも」
「二ノ姫」

 あの頃の姉を、彼女はとても好きだった。きらきらと目を輝かせて、冷遇されていると笑われても気にもせず、美しい稲穂の光をただいついつまでも傍で見ていた笑っていた姉を、いつまでも見ていたかった。

「貴方の幸福が、姉の望みであり、姉の望みが、私の望みです。貴女が姉を覚えていてくれるのなら、私の魂はそれだけで救われます」
「忘れない。私、忘れない。ずっと、ずっと覚えている。貴女の姉君のことを。そして、許されるなら貴女に、この国の行く末を見ていて欲しい。できれば、近くで」

 どうか、お願いします。
 頭を垂れるその人の金の髪は夜の闇の中でも淡く光り輝いて美しい。

「その栄誉が許される限り、お傍でお仕えいたします、我が姫」

 跪き、主を見上げる非礼を犯した彼女が見た姫君は、泣きそうな顔で笑っていた。

(一等星に願い事)