本当は、僕の頭の中にあるこの世界の一端を、誰も彼もに教えたいんだ。
その一言を聞いて、私は十年以上時を共にしてきた中で初めて彼の泥臭い、人間くささに触れられたような気がした。夜、人の声も静まり返ったさなかのことだ。
私とこのテンプルトンという青年が一緒に旅をするようになってもう十年以上が経つ。彼は幼いその身で自分の故郷を飛び出した。ただ世界の端を見つけたい。世界の輪郭を正確に縁取りたいと、その願いのために。
迷子のようにこの世界にたどり着いた私を小さいながらも地図職人であった彼は致し方なく拾ってくれた。私はその時一見して保護者のような見てくれで、それでいて彼がこの世界で私の保護者だった。
でもそれは随分と昔のことで、少年はもう子どもではなく、私のことなんて追い越してどんどん大人になっていく。
この夜も寝る間際、ベッドにお互いが腰かけて、真正面ではなく斜め前に座ってなんとなく、寝る前の会話をしている時、彼はぽつりとそれを口にした。
ただ、彼が大人になっても、それでもこの夜の静けさの中、彼の願っているその言葉がどれだけ彼の願いが込められたものなのかわかっていても、私はその願いの答えを知っていた。
「でもそれは、できないね」
「そう、できないんだよ。僕は弱くてちっぽけだから」
地図を作ること、より正確な地図を作ることはこの世界では金塊よりも価値があることだ。
途方もない時間、ただひたすらに土地土地を歩き回り測量をする。
彼にとっては世界を縁取るためだけの純粋な探求欲であるそれは、時によって他者の領土への侵害を容易にする。より正確な地図は争いの火種だ。残念ながらこの世界はそういう側面もある。
ただ世界を見たい男の子の夢は貫き通すには泥臭い道だった。
「僕にとって地図は世界だ。それ以上でもそれ以下でもない。だけど、そうじゃない人間もごまんといる」
「うん、そうだね。でも、それでも私は、テンプルトンくんの地図、好きだよ」
むやみやたらに地図を広めることはテンプルトンくんの危険が跳ね上がる可能性が高い。テンプルトンくんの緻密な地図にはそれだけの危険さを孕んだ正確さがあった。
ただ望むままに描いて望むままに広められるよう、世の中はテンプルトンくんを放ってはくれなかったし、テンプルトンくんも世の中を断ち切れなかった。
少しの明かりで灯される薄暗い部屋の中、その顔は斜め前の私を見ることなく、その奥の壁ですらなく、もっと遠くを見ている。その先には彼の望んでいる世界が見えているのかもしれない。見えていないのかもしれない。私には今それはわからなかった。
でも、その瞳は真っ直ぐとゆるぎなく、紡がれた音もまた真っ直ぐに前を向いていた。
「僕は僕のために、世界を見ることを選んだんだ。名前なんて残らなくていい。ただ、この世界の果てまで行ってみたい」
静かに根づく木のようだった。世界の果てまでという彼を、私は緑芽吹く若木のように思えた。
「いいと思う」
自分のためだと言うテンプルトンくんが人のために動ける人だと、心を尽くせる人だと、私は知っている。だから、いいのだ。
私はテンプルトンくんの言う自分だけの願いを誰がなんと言おうと応援する。それが世界中を万が一不幸にしても。
腰を上げ、薄暗い部屋の中でも溶け込むことなくぼんやりと見える明るい髪にそっと手を伸ばして頭の形に手を添わせる。つやつやしている。
「いつかテンプルトンくんの地図が知らない誰かの手元で世界を巡る手助けになるよ。テンプルトンくんの世界はちゃんと残るよ。少なくとも今私が一番に見てる。私は知ってるよ」
テンプルトンくんの願った世界がいつかの誰かにとって役に立ち、それでテンプルトンくんが嬉しくなるといい。それを私やテンプルトンくんが見られるかはわからないけれど、そう願うことは自由だ。
立ち上がって彼の頭を撫でる私のお腹のあたりに彼はそっと頭を預けてくる。
「ありがとう、さん」
「こちらこそ、こんな素敵な夢を見せてくれてありがとう」
静かな夜更け、二人でこんな話ができるなんて、昔の私は想像もしていなかった。
私はテンプルトンくんのつやつやした髪の毛の滑らかさを知らなかったし、見ないふりをしていた静かに貫く瞳の光を受け止められなかったし、差し伸べてくれた手を掴むことができなかった。それをしたら全て崩れてしまうと思っていたのだ。
でも全て崩れて壊れてしまうなんてことはなかったし、何もかもが別のものになることもなかった。
テンプルトンくんは世界を探しているし、私はその隣で私の何かを探している。
「そろそろ寝よう。明日は少しゆっくりするつもりだけど、もう随分遅いよ」
「寝てたら起こしてください」
「たまには努力しようよさん」
声が笑っているその人の髪をくしゃくしゃに撫でて誤魔化してみる。朝が早い相手に私は多分起こされるんだろう。それでも努力しろと言われたからにはもう寝るしかないので私はその頭をぐんと引き離し、少し乱暴にベッドにもぐりこむ。かろうじておやすみと挨拶だけはしてみせた。
おやすみさん。ちゃんと起こすよ。
そんな私にかけられる声が優しいものだったものだから、私はいつの間にか大きな子どもになってしまったのかもしれないなと、その優しい声に甘んじることにした。
title:Nicolo