その人の横顔が美しくて、いつまでも見ていられるような気持ちがしたのに、永遠なんてものはこの世にはなく、今日この日が最後なのかもしれないことは、一瞬後にしかわからないのだ。
***
彼女が同じ年頃の少年と出会ったのは戦争の最中だった。
彼女の村は焼かれ、生き残った人々と命からがら逃げ出して、解放軍とは聞こえがいいがいつ帝国の軍に倒されるかわからない集団に身を寄せるしかなかった。
そのうち彼女は家や家族を失った子どもたちの面倒を見る役目を担い、その日も元気に走り回る少年たちが無茶をしないかだけは気をつけてみていた。
ただその日、いつもと違ったのは室内なのにそよ風が吹き、それが外の香りを運んできたことだ。どこからだろうと視線を彷徨わせていたらもう一つのいつもと違うことが起きた。
「少しおじゃましますよ」
いつも手が足りないからと声をかけてくる大人たちとは違う、穏やかで落ち着いた、不思議と耳を澄ましたくなる声が後ろからかかる。
そこには解放軍に身を寄せた日に一度だけ顔を見た軍師殿と呼ばれた男がおり、隣にはずば抜けて美しい子どもがいた。
艷やかな亜麻色の髪を持ち、宝石のように感情のない瞳が冷ややかに彼女たちを見つめていた。
「ルック、どうですか」
「二人。向こうのやつと、目の前のアンタ」
声を聞いて美しい子が少年なのだと彼女は気がついた。そして、アンタと呼ばれたのが自分だということにも。
後から聞いたのは、外の風を吹かせたのは彼で、それに反応するか否かで紋章使いとして才能があるかを見ていたらしい。
それはずいぶんと大雑把な判定だと今の彼女は思うが当時はそんなことも知らないし、水と風の相性が良いことを知らされるのはもう少し先だった。
「ルック隊長」
魔法大隊を束ねる、生意気だがとびきりの実力者である彼は軍内から集めた紋章使いの素質持ちの中から彼女をそばに置いた。
それは彼女がルックと年の近いこともあったかもしれないし、彼女が幼い少女だったからかもしれないし、一番伸びしろがあったからかもしれない。感知能力に長けていたことは重用されていたけれど、そんなことはあの紋章使いには取るに足らず己にできることだったはずだ。
未だにその理由を彼女ははっきりとは知らない。
「被害状況は」
「前方右翼側への炎による攻撃を確認。水の紋章で応対してるようなので被害は大きくはないようです」
「右翼後方、風の紋章で風向きを敵方向へ。炎がこちらに飛び火しないように気をつけて」
伝令を飛ばし、冷静に前を見据える相手がそういくつも歳がかわらないことを彼女はいつでも驚いた。彼女も同じ年頃の子どもたちより落ち着いている自覚はあったが隣の少年は訳が違った。
彼女は才能があると言われ、実際かなりの速さで歩兵からここまできた。人手不足でいつだって使えるものは何でも使うからということもあったけれど、それでも、自分たちを率いる兵団長はそんな次元ではない。熟練の大人たちも文句を言えぬ才能を持ち傲慢とも取れる態度によく思わぬ者ですらそれに従った。それぐらい、彼はずば抜けていた。
「隊長は、何を考えてるんですか」
戦が終わった帰り道、ふと落ちた言葉をたまたま拾ってくれた彼の言葉は淡々としていた。
「早くこんな戦争終わらせて塔に帰って本を読んでいたいだけだよ」
そんな風に答えて、そうして赤月帝国が滅んで早々、祝勝会もそこそこに彼女の憧れは風のように消え失せた。
***
紋章使いとして見出され腕を磨き始めて数年。戦を終えてからはどこかの町で紋章屋をするなり、新しいトラン共和国の軍に身を置くなり、身の振り方はいくらでもあったのに、彼女はそれをいつの日か、と故郷を後にした。
国を出て、才能があるといわれた紋章術をさらに勉強した。歴史あるハルモニアにも訪い、一般市民しか入れない場所だけではあったが様々なことを学んだ。
そうして久々に故郷にでも戻って解放軍の時の仲間にでも会いに行こうと南下していたところ、戦に巻き込まれた。
「ルック隊長」
勉強すればするほどに自分が初めて出会った風使いがどれほど強く、そして脆いぐらいに繊細な力を使っているのかを彼女は痛感していた。
新同盟軍の戦の様子はデュナンのあちこちで噂になっており、その中で戦場を見たのだという人間の気になる噂は彼女の足を立ち止まらせるには十分だった。自分の身は自分で守れるからと新同盟軍の動向を様子見ようとした時点で彼女の行く先の半分は決まりきったことだったのだ。
新同盟軍という場所であの頃と同じように不機嫌そうに不思議な石板の前でその人は佇んでいた。
「誰」
「赤月……解放戦争の時にあなたの指揮下にいました」
「……ああ、アンタ。何、故郷が平和になったのにこんな戦火の只中に飛び込むなんてとんだ物好きだね」
以前と変わらず、むしろそれ以上の辛辣さに彼女は一瞬動きを止めて、それから苦笑いだ。
あの頃よりも背は伸びて、小生意気な少年の様相から青年へと足を踏み入れかけているその姿は子どもと大人の合間の独特の気配を帯びていた。
「昔、ルック隊長はまたこんな戦に呼び出されることはごめんだとおっしゃってたので。少しだけ気になって」
周りの紋章兵のことは戦力以上に捉えることのなかったその人に認識されていたことを彼女は知っていた。知っていたけれど、それから二年以上、まさか覚えていてもらえているとは思ってもいなかったのだ。そして思っていたよりも自分の中でそれが嬉しいことに彼女は言われて気が付いた。
また、あの美しい紋章の力の流れをこの目で見られるならと、自然と口を開いていた。
「ルック隊長、少し紋章が使える人間は、ご入用ではないですか」
「アンタ正気? 何の得にもならないのに、よくやるよ」
「またお会いしたいと思っていたので、何かの縁かと思うことにしました」
戦争を経験したのだ。昨日笑いあっていた相手が次の日には永遠に会えないことなど当たり前だった。自分が物言わぬ躯になることだって、簡単だ。
だから伝えたいことは伝えたいときに伝える。
彼女の真っ直ぐな言葉は彼に届いたのか否か。
勝手にすればと、そう言って、こっち来なよと彼の人は軍主に面倒くさそうに一言紹介した。
***
「嬢ちゃん、あんたトランの出なんだろう?」
「……ビクトールさん、フリックさん」
その二人とは新同盟軍で出会うのは初めてだったが知らないわけのない人だった。
解放軍の中でも有名人で、幹部だった人たちだ。最後の城攻めの時に姿を消したままで、トランの人々の中には生死を危ぶんでいる人もいた。
ただ殺しても死なないようなたくましさを持っているという声も根強く、いつか連絡があるだろうというところまでが彼女の知っている二人の消息だった。
瞬きをして、どうしてこんな二人が私に声をかけるのだろうと、彼女は顔で語っていたらしい。フリックが思わず笑みをこぼした。
「あの時は知らなかったがあのルックの隊にいたって聞いてな。ビクトールと顔でも見に行くかと来てみたんだ」
「それは、光栄なことで……わざわざありがとうございます」
「なんだ、あのクソガキの直属っていうからもっと灰汁の強いやつかと思えばまともそうだな!」
ビクトールという人の歯に衣着せぬところは以前から知れ渡っていたことで、しかし彼女はそれを自分に向けられることを想定はしておらず、何を返せばいいのか迷ったまま、返事をし損ねた。
そも、ここは食堂で、彼女は食事の途中だった。冷めないうちにと手を動かすことを再開した。
そして当然のように同じテーブルに着いた二人と何かしら話す内容などあっただろうかと、内心慌てて会話を検索しだした。
けれど紋章兵と一緒にいるか、戦争孤児になった子どもたちの面倒を見るばかりで、こうした前線の、しかも軍主と関わりあうような幹部とはついぞ知り合わなかった。だから何を話せばいいのかもさっぱりである。
「それで、どうしてまた戦争なんかに首を突っ込んだんだ? 俺たちみたいなのとは様子が違うように見えるが」
「紋章術をもっと深く学ぼうと北まで旅をして、久しぶりに国に帰る途中で噂を聞きました」
「どんなだ?」
「……凄腕の風の紋章使いがいると」
フリックは小さく驚き、ビクトールはあんぐりと口を開けて驚いた。対照的な驚き方をする二人だった。
要らぬ勘違いをされたのかもしれないと、彼女は思ったけれど酒の席で変に取り繕うと余計に拗れることを知っていたので黙っておいた。理由自体は間違いではないのだ。彼がいなければ戦火に巻き込まれぬようにしてトランに戻っていたに違いないのだから。
その後は多少そのことでからかわれたものの反応を最小限にすれば話題は次第に別のことに移っていき、ここの軍主のこと、軍師のこと、日々のあれこれ、戦況のことなど、話すことは事欠かなかった。
***
行軍中、馬上で感じる風に彼女は目を細め、自らの斜め前を歩む背中を見つめていた。
「ジロジロ見ないでくれる」
「申し訳ありません。懐かしいなと、思っていました」
途中参加した彼女は歩兵の下っ端からと思っていたけれど、希望していた通りのルックの麾下になると早々訓練をさせられた。
ルックは、新人だけれど解放戦争経験者でハルモニアへの遊学経験がある旅人をどの席次にするか、判断を部下全員に投げた。一番強くても指示を受けたくない人間が多いなら下っ端だという彼の言葉に年上の部下たちは困り顔だった。
仕方なく、ルックの次の席次の人間と彼女とで部隊を二つに分け、模擬戦をすることで落ち着いた。
「馬に乗るのも随分とマシになったもんだ」
「ひとり旅ですから。ある程度はなんでもできないと」
結果、模擬戦はもちろん彼女の負けだったけれどなぜかルックの古馴染みということがわかると歩兵ではなく、隊長付きがいいのではないかという話になっていた。
彼女の望んでいる形ではあったけれどどうにもこの部隊の隊長はそこそこに部下を困らせているらしい。
今も報告と指示を仰ぎに来た相手に的確だけれどそっけない返答をしているのを彼女は横目で見守っていた。
「部下を困らせるのはほどほどに」
「ついていく気がないやつを相手するほど暇じゃないだけ」
昔から変わらないその姿に苦笑いを浮かべながらも彼女は嬉しそうだった。
いくらかこの部隊で過ごしてわかったことは時折戸惑いながらも年若い隊長についていくことを止めないここの紋章兵は大なり小なり彼のことを好いていることだろうか。彼の辛辣な口ぶりに困ったように、それでもその言葉に応えようとする。それぞれに抱いた感情は異なってはいても誰もが彼の指示には従った。その点、この紋章兵の部隊はよくまとまった部隊だった。もちろん、それ以外はかなりの割合で転属していたのだけれど。
「前も今も、よく年下の指示を黙って聞くよね」
仕方がなく指示に従っているのだろうと、声はそう語っていた。
彼女はそれを聞いてまた困ったように笑い、その笑みを見た彼は怪訝な顔だ。
「貴方の指示だから聞いているだけです」
ルックはさらに怪訝な顔をして早々に会話を打ち切った。
***
「貴女がルックと仲の良い紋章兵?」
「軍主さ……軍主様に軍主様?」
「久しぶり。ここはトランじゃないのによくトランの顔を見るから面白いね」
昔、軍主と仰いだその人と、今、軍主と仰ぐ人が並んで目の前に立っている。彼女は目をぱちぱちと確かめるように瞬いて、夢ではないことを理解した。
食堂とは普段会えない人と会えるような場所なのだろうか。以前もビクトールとフリックに声を掛けられたことを思い出しながら彼女は二人の重要人物を前に固まっていた。
なぜか、ルックの覚えがいいだけで城の幹部に時折声をかけられる。昔も元軍主はこんな風にふらりと立ち寄ってルックのことを話して立ち去っていたことがある。
一人で食事をしていたところにこんなに目立つ二人が来ては注目度はかなり高い。もう食べ終わるその皿をそうそうに片付けることに決めた彼女は何か食べようとしている二人に気合を入れて声を掛けた。
「あの、外、行きませんか」
周りが騒がしいことに気が付いていたらしく納得する軍主と面白そうに動向を見守る元軍主に彼女は苦笑いを浮かべるしかなかった。
街の通りだと目立つので兵舎に近い木陰で三人座って遠くで訓練をする歩兵の様子を見守る。監督しているのはビクトールらしく、彼の声は大きくて三人の元までよく届いた。
天気は快晴。清々しい日だ。
「さん、貴女の話聞いたら会うってきかなくて」
「まさか追いかけてここまで来たとは思わないからさ」
「追いかけた結果ではなく帰る途中に寄っただけです」
彼女の中での事実はの目を丸くさせ、そして苦笑に近い笑いを浮かばせるには十分だった。
ただ付き添うようにいるだけが首を傾げるばかりだ。
「ところで、軍主……様はなぜ新同盟軍に? 私、見かけたらトランの軍部に報告を上げる義理があるんですけれども」
「ああ、顔は一度見せてるから大丈夫。残念ながら半ば公認だよ」
「帰られたのですか」
その一言には目を細めて笑い、は心配そうにに視線を向けた。
彼女は己の声の調子のわかりやすさを恥じ、目を伏せた。
彼女は昔、軍主の持つ紋章についてろくに知らなかった。真なる27の紋章というものはかろうじて知っていてもお伽噺のそれらは例え己の軍主がかざしていても現実からは遠い存在だったのだ。
今は以前よりも知っていることは増えた。学んで、紋章の成り立ちがお伽噺のような本当なのだと、真なる27の紋章の存在を理解した。
そうして聞き及んだのは、強大な力を人に与えるその紋章たちはその対価と言わんばかりに持ち主に呪いのような性質を与えるということだった。
「ハルモニアにも行ったんだろう? 勉強家だ」
「すみません。クレオ様とお話する機会があり、一度も帰られていないと聞いていました」
話だけを聞けばなんのことか、わからない人にはわからないだろう。
それでも彼女はかつてその人を遠くで仰ぎ見た、一紋章師として何事もなかったかのような振りしかできなかった。もそれをわかっているように何事もないように話を続ける。
「まあ、また旅には出ると思うよ。のことが心配だからしばらくは行ったり来たりだけどね」
「さん僕ってそんなに頼りない?」
「頼ってきたのはだろう?」
とは彼女も数度しか会話をしたことがなかったものの初めて顔を合わせたときには軍主らしい顔をしていた。
けれど今のはを前にすれば年下の少年らしさを出していて、彼女にとって微笑ましいそれは厳しそうな軍師殿などからすればあまり表に出したくないものだろうと思わせた。
明るい日差しの中にいる二人の少年に彼女はただどうしていいのわからない。
彼女は一介の紋章兵なのだ。ただ物珍しいことがあるのならばそれはルックという凄腕の紋章使いの覚えがいいことだろうか。それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ黙って二人を見守る彼女に気づいたのはだった。
「話がずれた。君に会いたかった本題。あの頃は、紋章兵になりたてで雛鳥みたいなものかと見てたけど、今回はどうしてわざわざ戦なんかに飛び込んだの?」
何人かに、彼女は同じことを問い続けられた。戦争を経験した者の中でもう戦いたくないという者は少なくない。そうでなければ戦った意味もない。少なくともあの戦はそのための戦いだった。
だからおよそ好戦的とはいえない彼女が自ら戦争に身を投じることが周りから見れば不思議なのだろう。
それでも、聞かれる度に答えは簡単だった。
「あの美しい風を、もう一度感じたいこと以上に何か理由はいりますか」
「いらないね。俺はその理由を聞いて今心からホッとしてる」
からりと笑うその人を、彼女はよく知らない。
知らないけれど、気づけば口を開けていた。
「私は、あなたを軍主様と呼べたことを、軍師殿とルック隊長に見つけてもらったあの日を忘れません。人はたくさん亡くなりましたが、戦ったことは後悔していません。私にとって私が生きることを決めた戦いに、あなたがいて良かったと、そう思っています」
「熱烈な愛の告白みたいだ。ねえ、ルックもそう思わない?」
その言葉に彼女が視線を向ければ先程までいなかったその人が木陰に座り込む三人を冷ややかな顔で見下ろしていた。
その顔つきはいつもと変わらない表情の代わり映えのなさだったが彼女は途端に体が固まったようで、ルックを見上げたままじっと動かない。
彼女の隣ではからからと笑っているしも心配そうに彼女を覗えど今日は付き添いという立場からかただ黙って見守ることにしたらしい。
木陰の下でそよぐ風だけが気持ち良さそうに人の間を抜けていく。
「昼休憩、長すぎ」
「も、申し訳ありません」
「軍主からの呼び出しに付き合わせたんだ。許してあげてよ」
「職権濫用はどうかと思うけどね、元軍主サマ」
元の希望者は見ただけでわかったらしい。一段と冷えた声で皮肉な笑みを浮かべられたはそんなもの、と何も応えてないようで、相変わらず軽快な笑みを浮かべている。
残りの二人は二人の間に流れる空気にあえた触れに行く勇気もない。ただ黙って見守るだけである。本日、軍主沈黙日和。
「訓練、できないんだけど」
「すぐ向かいます! 軍主様、様、失礼します。またお時間ある時にお話したいです」
「俺はいつでもいいよ。の息抜きがてら話そう」
「せっかくだから今度はルックの部隊に顔見せるよ」
眩しい人たちに囲まれながら彼女は深く一礼し、日常に戻るため立ち上がった。
***
祝勝の声があちこちで響いている。
戦の終わりに誰も彼もが喜んでいる中で彼女は人気のない城の中にいた。
会場の騒めき、大通りのどんちゃん騒ぎ、それらは近くて遠い中、彼女の目の前には人の名前が多く刻まれた石板が佇んでいる。
石板守は今はどこにいるのか、この場には彼女以外誰もいない。
「……きれい」
湖の城でも同じような石板のそばに彼はいつもいた。外に出ているときや訓練があるとき以外、彼はこの石板の近くで随分と難しい紋章の専門書を読んでいた。その頃はわからなかったその難しさが、今の彼女にはあの年齢で読むには高度なものだったとわかる。あの頃にあの本を理解していたのだとすればルックという紋章術師は天才と呼ばれる種類だろう。彼女は今でもあの本の全てを理解できる気はしない。ただあの本の難解さを理解するだけには学びを深めた。
それでも、目の前で静かに佇むこの石板のことは、この戦争が終わろうとしている今もわからないままだった。ただその静謐な美しさを昔も今も感じるばかりだ。
触れた指先に石の携えるひんやりとした質感が伝わってくる。
「そんなものに名前を刻まれたいわけ?」
浮かれた空気に揺らぎもしない平時通りの声に彼女は振り向き、微笑んだ。
「少し違います。貴方と同じ場所でものを見られたら、少しは違うのかと思っていただけです」
百八の星が真なる紋章が関わる大きな戦の中で導かれて集まることがあるのだという。
すべての星々が集まるのか、それとも欠けたままで終着を迎えるのかはその時々によるし、揃うから正しいわけでも、揃わないから正しいわけでもないという。
隣に並ぶように立ち、ただ刻まれる名前を見つめるルックが何を考えているのかは彼女にはわからない。
ただ窺い見るその横顔が何の感情もなさそうでそうではないことを彼女は昔から知っている。本当に嫌ならばもっと人と関わらなければいい。噂を聞いただけでここまでやってきた人間のことなど放っておけばいい。それなのに彼は彼女を傍に許し、周りが彼の名前を呼ぶことを許している。
愛想のない冷たい人間だという人たちがこの城の中でも少なくないことを彼女は知っていた。そういう面がないと言えば嘘になるだろう。わかりやすい気遣いも優しさも、この隣の美しい人には縁遠いのかもしれない。
「ルック隊長の、味方を守る風の紋章術が、一番好きです」
「は、なに、いきなり。気持ち悪い」
眉を顰めて己を捉えるルックの言葉も彼女は微笑んで受け止める。そう言われることぐらいは想像の範囲内だった。
喧騒が苦手で、大騒ぎする知り合いに絡まれるのも嫌がるルックがここにたどり着くのは彼女にも簡単に想像がついた。そしてこの夜を終えれば彼は昔、あの湖の城を名残惜しい顔もせず、挨拶もそこそこに立ち去ったように、ここを去るということも。
彼女は、昔よりもほんの少し紋章について学んだ。
だからいくらルックという紋章術師が天才的な才能と力を持っていても戦争で見せたあれほどの紋章術を通常の紋章では再現できないことも理解していた。
彼の抱える呪いじみた性質は、いったい何なのか。それを問いかけることは、彼はとうとう許してくれなかった。それを越えて問いかける勇気を、彼女もとうとう持てなかった。
「ルック隊長、また、お会いできますか」
それは、答えの分かりきっていた質問だったけれど彼女は問わずにはいられなかった。答えを願う言葉ではなく、それは彼女の願いを込めた問いかけだったから。
ルックは己を捉える瞳を確かに見つめた後、ふいと視線を石板に向けた。
「そんなの、自分で決めることだろう」
それもその通りだったから、彼女ははいと頷き、そしてその横顔をただ見つめていた。
***
海に近い街は潮風が街の中を吹き抜けていく。
その心地よさに彼女は目を細め、そしてあともう少しというところまでやって来たなと、隣の人が自分を見ているのに気が付き頭を下げた。
「ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます」
「俺を見つけた出した強運に今回は負けてあげたんだよ」
「はい。ありがとうございます」
戦争がようやく終わったあの夜、あの横顔を見た日が彼を見る最後になるとは、彼女は思ってもいなかった。
本当は、最後かもしれないとは思っていても、またきっと出会えるのではないかと、淡い期待を、奇跡なんてものを信じていたのかもしれない。
けれど彼女のもとに奇跡は訪れず、結局時折トランに戻ってもまた旅に出る、そんな日々を過ごすことになった。
幸いにもトランでは彼女によくしてくれる人が多く、解放戦争を共にした人々の多くは彼女の旅の話を有益な情報だとし、その見返りに便宜を図ってもらうことも多かった。そしてデュナン共和国でもあの頃知り合った人々が旅の話のお礼にと新しい旅の日々を支えてくれた。石板に名前を刻まれることはなくても彼女の過ごした日々は今の彼女を大きく支えている。
「俺を見た途端に一人じゃこわいから少し二人旅をしてほしいだなんて、君も随分とたくましくなった」
「女性の一人旅は危ないですから。時折若い男を連れて、なんて言われるのは心外ですけれど」
彼女の隣を歩く人は多く見積もっても二十歳そこそこの姿の元解放戦争の軍主だった。最後に出会ってから十五年近く経つ彼はあの頃と変わらない見た目のまま、あの頃よりも落ち着いた口ぶりで笑っている。その姿を見て一瞬彼女は目を見張ったけれど、すぐに慣れてしまった。旅先ではいろいろな人と出会い、順応することに随分と長けた。
彼女の旅は紋章について学ぶ旅と言ってもよかった。最初は北のハルモニアを中心にグラスランドも随分と歩き回ったけれどここ数年はずっと南の群島諸国やファレナ等を見て回り、遺跡を見て、時折厚意で土地に残る伝承の本を閲覧し、土地の歴史に詳しい人に話を聞いた。知識を得る度に謎めくばかりの世界の在り方を追い続けることに夢中だった。
だから、輝く太陽の都で、旅から帰って来たばかりだという元女王騎士の男がグラスランドとハルモニアのあたりで再び戦争が起こりそうになっていたことを聞き、なんとなく気になりながらトランに戻ればそれがどうやら百八の星々が集う戦いだったと、すべてが終わり、戻ってきた竜騎士にそれを聞いた。
戻ってきた竜騎士、フッチは彼女を見て、息を呑んだ。その顔の絶望に、彼女はもう二度とあの風をこの身に感じることはできないのだと淡い希望が静かに沈んだのを胸の奥で感じた。
「伝手を使いまくって君グラスランドギリギリまでフッチに送らせといてよく言うね?」
「私、解放戦争時代はあまり交流していませんでしたが当時の同世代の知人友人は随分と多くなったんです。フッチはデュナンでも一緒でしたから、懐かしい話もたくさんできますし」
「はいはい。それでグラスランド手前でフラフラしてた俺を見つけたんだから運が良いよ」
本当はトラン共和国に優遇されている解放戦争時を知る人々にはトランの英雄に関する情報を得た時点で報告するという義務が未だに存在している。
フッチがわざわざ送ってくれたのもこの付近での目撃情報があったからだが彼はきっとその程度は予想しているだろう。そして大抵の人間は見かけて、再会をしてもその無事を国に伝えることはすれど会った彼に帰るように言わなかった。そのためトランの当時の上層部と現在の上層部には時折彼の目撃情報と生存報告がされているだけで、彼が密かに生家を訪れてはすぐに去るのは公然の秘密だった。
「さ……、慣れませんね」
「敬語は譲歩しているこっちの身になってよ。年上の女性に丁寧に接せられてる旅人とかカモにされるんだってば」
二人旅を始めてしばらく。到着したビネ・デル・ゼクセの街は賑やかで、二人の会話を聞いている人々はそういないし、もし聞かれて実際カモと思われてもなんとも思わない二人でもあった。彼女は本来一人旅をものともしない紋章術師だったし、隣はトランの英雄である。街の少し悪い人間程度にどうかされてやるほどかわいくはない。
ここで今日は一泊し、もう数日もすればビュッデヒュッケ城にたどり着く。その城から少し外れたところに石板が佇んでいることを、彼女はフッチから聞いていた。
「……やっぱり、こわいですね」
「危険だって止められても遺跡に踏み込む紋章術師になったって聞いてたけどな」
「誰もいない石板の前ほど、私にとってこわいものはありませんよ」
「俺も、それはまあまあこわいものだな」
もしかしたらがグラスランドの近くまでやってきていたのは同じ理由だったのだろうか。
彼女はそう思ったもののただ潮風の心地よさに再び身を任せることにした。
***
風にさらされた石板はまだここに姿を見せてそう長い年月が経っていないはずだったけれど手入れもされておらず、海風でその表面は指でなぞればべたついた。
刻まれた名前の多くは彼女の知らない名前だったけれど時折見える見知った人の名前を、丁寧に辿っていく。
そうしてすべて見終わった後、彼女はもう一度、一番最初に見つけた名前の部分に指を添えた。
「会いたいと、もっとがむしゃらに望めばよかったんでしょうか」
「会って変わる馬鹿なら、もっと事は簡単だったんじゃない?」
知れば知るほどに紋章は強大で、人が持つには随分と持て余す代物だと、彼女はつくづく感じていた。
それを、あんなにも己の身体の一部のように自然に操っていたルックを、彼女は旅の最中、紋章のことを一つ知る度、風を感じては思い出していた。
「あいつを知りたかったんだろう? 随分と、不器用な探し方だったけど」
彼女は、その言葉を耳で理解しながら目の前の石板だけを見つめて視界が滲むのを感じていた。ルックと、そう刻まれたその文字もよく見えなくなる。頬にあたたかくもつめたくもないものがどんどんと流れて輪郭に沿って下に落ちていく。
どれだけ旅をしても、どれだけ紋章について詳しくなっても、子どもだったあの日から、背中を追いかけ、斜めから顔を窺い、横顔を見つめた日々よりも先に進めなかった。一緒に隣を歩くことを、彼女はとうとう、できずにここまでやって来た。
彼のあれからの日々はどんなものだっただろうか。彼女はそれを知ることはもう叶わない。彼の辿ったもののいくらかを辿れても、彼の口から、彼の旅を聞く機会は永遠に喪われてしまった。
「あの美しい風を、世界で一番愛していました」
「うん」
「ルック隊長は決して饒舌な人ではありませんけれど、あの人の紡ぐ風は繊細で、やわらかく、あたたかだった。私は、それをまた感じられるのなら戦だってなんだって、構わなかったのかもしれません」
その瞳の見つめる先が彼女の知らない場所だったことを、彼女は知っていた。どれだけ追いかけても、風は気まぐれで、自由で、留まることはない。頬を撫ぜてもあっという間に通り過ぎ、そして再び忘れた頃にやってくる。
「石板になんて、刻まれなくてよかった。ただ、もう一度、もう一度会えたら、今度こそ、言えると思っていたんです」
己の命の方が先に尽きるのかもしれないと、そう思っていた己の浅はかさを彼女は呪った。彼の持つものを、抱えていたものを憎まれてでも聞いておけばよかったと、胸の中で何度渦巻いただろう。
最後に見つめた横顔はもう記憶の中で掠れるぐらいになってしまった。昨日のようにも思えていたけれどどうしようもなく遠くになった昨日だった。
「君さ、紋章に関しての私家本を出しただろう。トランではその後いくらか流通してたみたいだけど」
隣で聞こえてきた声は努めて平然としていた。
突然言葉にされたそれを理解するのに彼女は随分と時間がかかったけれど、掠れた声でなんとか肯定した。
何年か前になるだろうか。あちこちを見て回って感じたことを本にしてみないかと誘われ、援助も受け、少数ながら本を出版した。随分と偏った見解のそれは旅行記にしては難解で、専門書にしては中途半端だった。結局知人や一部の紋章屋に届きはしてもそのうち忘れられていった。そのはずだった。
「俺ね、本当は一度ルックに会ったんだよ。その時、あいつがその本を読んでいるのを見たよ」
「う、そ」
「その時は知らなかったし、結局喧嘩別れしてそれきりだったんだけど、随分と読み込んでいるみたいだったから、覚えてたんだ」
彼女はその瞬間、膝から崩れ落ちていた。石板に頭を預けて、手でそのひんやりとした石の感触を感じながら声を上げて泣いていた。
ずっと、長い間、彼女はただ石板の前から動けなかった。
海から風が、二人の身体を撫ぜるように時折吹き抜けて、そして草原の方へと流れていった。
***
「良いお城ですね。隊長ここに滞在しなかったなんて、もったいない」
「そうだね。ここは居心地が良くて、城主の彼も話してるだけで俺思わずにこにこしてきた」
石板は本拠地だったビュッデヒュッケ城の近くにあり、二人は立ち寄り、お互いの旅の途中で得た交易品を宿代に数日滞在した。
戦が終わった城は城主の人柄もあってか平和そのもので、城の人々もほがらかな人ばかりだった。
最初の日は部屋から出てこなかった彼女も今はやわらかく笑っていた。
「君はこれからどうするの? トランに戻る?」
「時々は戻りますけれど、今まで通り続けられる限りは旅を続けます。私、旅も紋章のことを調べるのも、結構好きなんですよ」
「うん。……きっと良い旅になる」
は穏やかに微笑み、彼女もそれにつられて微笑んだ。
短い二人旅の終わりだったけれど、二人とも特別別れの挨拶はしなかった。
「ハルモニアで、面白いことが聞けたらクレオさんにもお話しようと思っています」
「いいんじゃない? 家で退屈しているだろうからお土産代わりにいろいろ話せばいいと思う」
じゃあ、と城を出て彼女はハルモニアの方へ。はどこへ行くのかは言わなかった。
彼女もどこへと聞くことなく、そして二人は前へと一歩ずつ進んでいった。
(横顔)