冷え込む朝、朝日の眩しさに目を覚ます。冷えた空気にベッドを抜け出してふるり、震えながらもリビングに向かう。部屋をあっためようとカーテンを開けて光を入れた後は暖炉の火を点ける。今朝は久方ぶりのお客人がいるから、と朝からなぜだか野菜スープを作り出した。あたたかいものは胃をあたためるし、何より私が飲みたかったからだ。玉葱をほんの少し多めに、コトコト。スープ様、どうか美味しくできあがってくださいね。あなたのお供はパン屋さんのパンですから、一緒に並べて大丈夫なぐらい、美味しく。
後は客間で寝ている人が起きるのを待つだけになってしまったから、私は暖炉前のソファに腰をかけ、膝掛けをかけて朝の優雅なひとときだと、読書を始める。南の海で昔起こった戦争を冒険譚にした小説だ。どこの誰がこんなに面白く脚色したのか、ずいぶんとよくできている。明るく、颯爽と海を駆け抜ける英雄。波風に揺れる髪を、想像した。想像した。むしろ、思い出していた。
「……おはよう」
「おはよう」
そうすると思い出していたはずの栗色がひょこっと、扉の奥から現れた。ゆっくりと紡がれた挨拶に笑顔で応えた。朝から人と言葉を交わすことはとても、健康的で幸せなことだ。
朝ご飯の支度を再開しようとソファにお客様を座らせて台所へと立つ。あとはほんの少しの支度であったかい朝ご飯の完成。
「……これ、」
ソファで待たせたその人は私が読んでいた小説が気になったらしい。カバーをしていたから怪訝そうな顔をしたので中を見てみるようすすめて、そしてそのいやそうな顔を見てくすくすと笑ってしまった。
スープとパンをテーブルに用意しながら、口を開く。
「かっこいい英雄さんだよね」
当の本人は数ページ見るなりぽいとソファに投げ出して牛乳をコップに注いでくれた。朝は牛乳派です。長いこと。
「ぽいって、ひどい」
「……小説とはいえ、つい」
彼が私のところに来る時は決まって深夜で、そして、彼の親しい人と別れを告げた時。私は黙って彼を受け入れて、こうしていつも朝ご飯を一緒に食べる。黙々と食べて、昼は畑仕事を手伝ってもらい、おやつ休憩をし、一人じゃままならない作業をここぞとばかりに手伝ってもらい、夜は一緒に夕飯を食べる。そしてお互いに再会するまでどんなことがあったかをのんびりと語り合い(旅暮らしの彼と定住の私では私が聞き役になることがほとんどだったけれど)、寝る直前、おやすみなさいと部屋のドアの前で彼は誰と別れを迎えたのか、そっと名前を口に乗せるのだ。私はそう、と頷いて、おやすみなさいのハグをする。私の知っている名前でも、知らない名前でも。次の朝、何事もなかったかのように私たちは朝ご飯を食べ、彼はこの家を出て行く。ずっとずっと、そうだった。
今朝はその小説の話をしながら、家の屋根の修理をしてもらった。本当に辺鄙なところに住んでいるし、事情が事情なので彼が来る時ぐらいしか、大がかりなことはできない。いつかまた、この家も引き払うだろうけれど、それまでは大事に、大事に使っていたい。
お昼は作りすぎたスープをまた口にして、畑の野菜の様子を見て、彼には森に狩りに行って貰い、私は洗濯物を取り込んだり、部屋の掃除をしたりしていた。夜はウサギの丸焼きにサラダ、リゾットと豪勢に、ただし二人で黙々と食べた。珍しく、二人してワインを飲んだ。せっかくだからと、カナカンのワインを。お風呂に入り、今朝読んでいた小説の話でああではなかった、こうではなかったと盛り上がり、もう少し飲もうとまた同じワインを結構なスピードで空にした。そついつい飲み過ぎながらもそろそろ寝ようとお互いの部屋の前に立つ。
彼は、いつまで経っても、口にしなかった。
「……彼、最期はひとりじゃなかった?」
「……さがしていた、人が」
看取ったのだという言葉は聞き取れなかった。かすれた音が耳元で聞こえたのでぽんぽんと、その背中を何度も、何度も撫でた。
この別れは、数えるほどしか味わったことがないけれど、安堵と、絶望と、よくわからない喪失感がひしひしと、この身に迫る感覚は、何度目かわからなくても未だに慣れることはない。置いて行かれたと、子どものような気持ちで望みを叶えた彼を、思う。
「前にここに来たときも、今日飲んだものと同じ銘柄のワインを飲んだな」
いつでもおいでと言ったのに、片手で数えられる程度だけ、それも、どうしても寄らざるを得ないような、そういうときにだけやってきた彼が、唯一この家で飲んだ日。会いたい人がいるのだと、たとえ幾年月、気が狂うほどの時をかけても、その一瞬のために、彼は生きていた。
「あの日の彼はべろんべろんに酔ってね、ベッドに寝かせても私の手を離してくれなかったから、添い寝したんだよ。そうして朝起きてみればものすごい勢いで驚かれて、その後しかられちゃったな。「イイ歳した女が男と一緒に寝るなよ」って。イイ歳ってあなたと私もうよぼよぼじゃないってつっこんでやったけど」
くすくす笑いは静かな夜によく響いた。
「って、酔っ払いか」
何を言っても反応しない。ぎゅっと抱きしめてくるこの人は酔うと黙って人を抱きしめる癖がある。これもまた、てこでも離れないのだ。長い長いつきあいで、それは身にしみている。こういうときは黙って抱き枕にされるしかない。
なだめながらとりあえずベッドに寝かせるとそのままベッドに引っ張られて再び抱き枕。こんなに酔うのは何度目か。滅多にこうはならない彼はただ何も言わず、何かを押し殺すように私を抱きしめた。
「おやすみなさい、。良い夢を」
彼に優しい夢を。私には、悲しくても良いので、いなくなってしまった彼の夢を。
深く深く沈んでいく夜にそっと、目を閉じた。
(あなたのための夜)