それは二人が山中での野宿をしているときのことだった。バナーの村に到着する前、たちと鉢合わせしないようにとしていた時期にあたる。
目的のない野宿はすることが少ない。食料と寝床を確保してしまえばあとは移動する必要もないので自由な時間が多いのだ。出立する予定もないので気持ちもいくらかのんびりしている。
その夜も獣除けの火を紋章で灯してから二人で寝ていた。場所は十分に確認したところであり紋章から生まれた火は術者の意思が伝わる。さらに言えば気配に敏感な旅慣れた二人である。何か起こってもすぐに対処できる状態ではあった。
「……空気が澄んでる」
感嘆の息を漏らしたのはだった。首筋を撫でる冷ややかな空気が思ったよりも体には驚くものだったらしい。ふるりと震えて目を開けた世界が思っていた以上に静まり、自分以外の生き物はこの近くには隣以外にいないような、そんな空間があった。
首元の隙間を少し整えて、木々の隙間から空を見上げてみる。視線の先の空は満点の星空である。深夜の時間帯も終わりに近づいてはいたもののまだ夜明けには少し遠かった。
隣ではが目を閉じて木に寄りかかっている。が少しでも動けば目を覚ますだろう。気配にはも経験上敏感になっているのでを起こさないようにと静かに顔を上に向けた。
「……そういえば」
そのあとに続くはずの言葉は口の中に消えてしまった。もしかしたら記憶が心の中をよぎったのかもしれない。
しばらくそのまま空を見つめているの隣で静かに声が響いた。
「そういえば、なに?」
「起きてたの」
「起きてたね」
いつからだったのだろうか。寝ぼけた様子すら見せずがパチリと目を開けた。が寝るまで起きていてが起きたら起きているようなタイプである。いつ寝ているのかとはひそかに心配しているのだが本人は至って元気そうではある。
そんなはじっとの答えを待っている。続きはなんなのだと、早くしろとは言わずとも答えないという選択肢は許してくれないらしく、彼はじっと待っていた。妙なところでこの旅の連れは強引だなと、は諦めて口を開く。
「……私の世界ではそろそろ新年だなと」
「それで?」
「新年最初の夜明けは多くの地域で神聖なものだって言われててね、みんなで朝日を待つんだ」
小さな子どもから腰の曲がった祖父母まで、家族揃って眠たい目をこすりながら夜明けを、太陽を心待ちにするのだ。
そして昇ってきた太陽は最初は小さな煌めきなのだが徐々にその光を大きくする。やがて目を細めるほど眩しい光がすべてを照らすのだ。
話し出せば段々とその景色を思い出して、表情も明るくなるの楽しそうな様子にもつられて微笑んでいた。のいるこの世界も新年を祝う。夜明けの太陽を見ることもするのだが決定的に違うことがある。
「守龍のいる国は太陽の光の中で守龍がその一年の幸福を祈ってくれるの。この国が平穏でありますように。豊かでありますようにって。あとは、本当に稀にだけれど気まぐれで自由な龍が姿を現してくれることもあるなあ。すごく綺麗で……にも見せたいぐらい」
龍のことをは何度かの言葉で耳にしたが彼女はいつも瞳を輝かせる。頬を赤くさせ夢見るように龍のことを口にする。その様は恋する少女そのものである。
己の生まれ育った国の守龍が毎年見せてくれたその姿と魔法の数々をうっとりと語る姿は普段とは想像もつかない。
「妬けるなあ」
「何が?」
「龍に」
「永遠の恋だからね」
「それは手強いね」
たったそれだけで流された。二人ともいつものことだと気にもしていない。ただのじゃれあい。言葉に重きはないのだ。
ただにも矜持というものがある。それだけ素晴らしいと言われた世界のことを聞けばこちらの新年が、夜明けがいかに素晴らしいかを感じてもらいたくなる。
「この世界に骨抜きにされちゃうような夜明けをいつか見せてあげるよ」
それは何気ない言葉だった。そして大きな約束でもあった。
はおや、と目を見張らせて、そして楽し気に笑う。
「が見せてくれるの?」
「すごくお気に入りの場所があるから、そこで新年最初の夜明けを迎えてみてほしいんだ。きっと感動する」
水面が揺れ太陽の光があちこちに反射する。深い水底に沈んでいた太陽がすべてを振り切るかのように姿を見せる。その瞬間がは好きだった。
今はまだ遠い、己の故郷の湖は、美しいままだろう。
その瞬間を彼女と見る瞬間、その光景はを微笑ませるには十分なものだった。
「じゃあ、楽しみにしておこう」
「楽しみにしておいて」
いつかの約束。
それがこの二人にとってどれだけ叶うことが難しいかを二人自身はよく理解していた。
けれど二人ともただ今はそのいつかの夜明けだけを楽しみに微笑み合った。
(いつかの約束)