先日、大声を出して怒られた後は無事に左手と額に紋章を宿していた。左手には水の紋章、額には火の紋章だ。大枚はたいたわけだが本人は非常に満足しているらしい。宿したその日から飽きることなく訓練に励んでいる。
ジーンは学院の講師になるためにグリンヒルに来ており、紋章屋は期間限定の手伝いだったらしい。自分の店ならおまけしてあげたいのだけど、と申し訳無さそうに言っていたがそれ以上の情報を得られたのでとしては十分すぎるほどだ。
が魔法の才能があるというのは伊達ではなかった。が試しに、と学術指南に向かわせたところ指南役の男性はいくつかの基本を教えたかと思えば早々にもう指南出来るところがないと両手を上げて降参された。魔力、詠唱、魔防、精密と、上がる要素もあるかもしれないが自分の手には負えないと。一握りの優れた指南役に師事するしかないらしい。
元々の素質は十分。技術があれば紋章の訓練もそうたいしたことはなかった。要はの慣れである。試しに、とは水の紋章で魔法使用回数を数えてみたところ普通の魔術師が目を剥くぐらい使った。
「って戦闘に関して怖いものなしだね」
ある程度紋章の確認をしてから二人はグリンヒルを出て旅を続ける。ジーンの忠告によるとこの辺りは近々戦場になるという。
もも他所の戦争に巻き込まれるのはごめんだ。早々にグリンヒルを後にした。
現在向かっているのはトゥーリバーという街である。こちらも随分と危ない様子なのだがグリンヒルより北は既にこの国と敵対している敵国に落とされたらしい。戦争に関わらないためには西に行くか南に行くかというところだった。山道は遭難しかけた過去があり、このあたりの情勢も土地勘もまるでない中なので避けられるなら避けたいというの意見が通り多少危険ながらトゥーリバーへ行くことになった。
どちらかが戦力的に足手まといだというのなら西のティントに向かっただろうが二人とも旅人にしてはずば抜けて強かった。弱い魔物などおしゃべりしていても倒せるぐらいだ。
何かあってもその場を切り抜けるぐらいのことは出来る。戦地のど真ん中に巻き込まれさえしなければ大丈夫だろうと危険な旅路を選んだ。
「本業は魔法使いだけど格闘技もそれなりに身につけてるからね。それを言うならの方が完璧なのよ。私戦闘はできても料理が出来ないし」
「魔法の繊細さは認めるけど料理は、ね。どうやって旅してきたの」
「焼いて食べてた」
包丁やナイフを握らせたらすぐに指を切り、鍋を料理させたら具材を適当な順番で入れる。フライパンを握らせれば無駄に手首のスナップをきかせようとして中身がだめになったりすぐに焼こうと火力をいじって炭にする。調味料の選択もなんとなく。分量は確認しない。勢いで出来ると信じている。
生きていく上でかなり不都合のある調理法だ。野宿のときの食事の方法を聞けば料理をしなくて良いものを大量に持ち歩いているという。持ち合わせが尽きる。そうしたら川が近くにあれば魚を吊り上げて丸焼き。獣の方は捌くことが出来ないから食用の植物を食べ歩いたという。よりもサバイバルだ。
「手先は不器用だし余計な作業が多いし料理自体興味ないから向いてないって開き直ってる」
「自覚があったんだ」
「失礼な。自覚ぐらいあるって。それでなおかつやるのよ」
「良い趣味してるね」
開き直っているところを見ると以前も誰かに言われたのだろう。そしてそのときもに言ったように直すつもりなどないと言い切ったのだ。にやにやと笑いながら今の自分を全肯定するはかなり漢らしい。
こうしてとの旅は他愛ない会話を交えて続く。は自分の世界について話し、はこちらの世界について話す。
ただは自身の過去については不自然なぐらい話さない。はそれに気付かぬ振りをしながら話し続ける。だってに話していない過去はある。にとっては自身の過去そのものが話したくないものなのだろう。だから触れずにいる。相手との距離を見誤らず二人ともが距離を取っている。だからこの旅は危うくも続いていた。
街道を歩きながらは空を見上げる。真っ白な気持ちの良い雲と痛いほどの青が空を覆う。吹いてくる風は穏やかだ。この世界には魔力が満ちている。の知らぬ方法で満たされていた。気づくのにはしばらく時間がかかったけれど気付いてからはこの世界の隅々まで行き渡るこの魔力の心地良さに身をゆだねた。
この世界にはの敬愛する偉大なる龍はいない。空を飛翔する姿はない。あの姿は空を飛べない人間にとっては手の届かぬ憧れだ。そして見ただけで幸せになれる。キラキラと輝く存在はいるだけで人々の歓喜の源となるのだ。
「空が、さびしい」
「空?」
「龍がいないって思うだけでこの空はさびしい気がする。不思議だね」
「俺は龍が飛翔する姿を見てみたいな。の話す龍がどれだけ美しいのか、見てみたい」
が見たことがあるのは生まれた国の守龍の風龍と飛ばされたときにいたミズベの国の守龍の二匹だ。豆粒のような龍も見たことはあるのだがそれはカウントしない。そんな豆粒では龍の美しさなど堪能できるはずもない。
とは言っても見た龍たちも国を見守るように空を駆ける姿で間近で見ることはおろか話したこともない。それぐらい龍と人の間の距離は本来遠いものなのだ。
自国の風龍は民にとって誇りだった。祖国に守龍がいる国は国民の全てと言っても過言ではないほど、民は龍に敬意を抱く。恩恵の源であり国富の具現者。それが守龍だ。滅多なことでは戦争は起こらない。守龍を持つ国は龍の庇護にあるため国土全体が豊かなのだ。ひどい凶作になることはなく飢えに苦しむことはない。戦争を起こしてまで領土を広げる必要もない。
守龍を持たない国は守龍によって守られている国に手を出すことも考えない。守龍は王家に忠誠を近い国難となればその力を発揮する。人間対龍。そんなものやらずとも結果は明らかというものだった。
は龍を心の底から愛している。そして龍に敵わなくても、あの至高の存在により近い状態に在りたいとは思っている。王家の人間ではないから龍に愛を注がれることはない。注がれたとしてもそれは守龍の加護する国の民としての平等な慈愛だ。の求める愛ではない。
大昔、それこそ数百年では足りない。もっと昔は龍も人間と近しい存在だったという。そんな世界に生まれていたら龍と親しくなれたかもしれない。王家の人間のようにとはいかないが近しい存在として見てもらえたのかも知れない。
「惚れるよ、絶対」
「恋する乙女だね」
「そうだね。私の人生の根源は龍にあるかもしれない」
幼い頃、街の空から見えた風龍を見て一目ぼれをした。魔法使いの才能があると言われた時、あの風龍に少しでも近づきたくて将来は国の魔法使いになるのだと決めた。ただそれでは少しも近づけなかった。龍と近づきたくて触れ合いたくて無謀にも旅に出た。
の旅の中心は龍がいる。は誰よりも龍に恋焦がれている自信がある。だから力が弱いとは言え星龍のあの少年はやっと掴んだ憧れの存在だった。やっと近くにいられる龍だったのだ。あんなふうに対等に話せる日々は夢のようだった。
の表情が龍を語る度にやわらかく、思いのこもったものになっていく。それをは眩しいものを見るように見つめたが空を見上げた彼女は気づかない。
「妬けちゃうね」
「あれ、私のあまりのいじらしさに惚れた?」
「はいはい」
この世界には龍がいない。けれど今の旅もにとっては今までとは違う楽しさがあった。同じ技量を持ち他愛ない会話が出来笑い合える。今までもそういった人はいたけれどの隣は居心地がよかった。お互いに距離を測りあっているからかもしれない。ぎこちない不自然さは残る。それでも、長く続いた一人旅のあとの連れがいる旅は安堵するものだった。
「は龍に会いたいらしいけど私としてはとりあえずコボルトってのに会いたいところ」
「じゃあ南に寄り道する? コボルトの集落があるらしいから」
「犬っころの集落!? 行く行く!」
コボルトに対して失礼極まりない発言だがはあながち間違いではないなと自身の知っているコボルトを思い出していた。嬉しいときに尻尾を振る様は犬そのものである。
動物好きが弱いコボルト。も例に漏れず騒ぐのだろう。あっという間に進路を南に取ったの後をは苦笑いで追った。
(異なる常識)