数日すれば目を覚ますというリュウカンの言から予想に反して眠り姫はグレッグミンスターに着いてからもう一週間、目を覚ます様子はなかった。
たちも留まると言ったのだがはそれを断り、彼らに瞬きの手鏡を使わせ帰らせた。ビッキーが仲間にいると知ったがそうさせた。彼女がいるならばグレッグミンスターにだって一瞬で来られるだろう。
峠を越え、後は彼女が目覚めるのを待つだけだった。病室でなくてももう大丈夫だろうと言われ、寝ているを家に連れ帰ったはただひたすら、彼女の目覚めを待っている。
「坊ちゃん、さんのことはわたしが看ておきますから少し休んでください」
「ありがとう、クレオ。でも大丈夫だよ。本を読んでるだけだから」
彼女がにとってどういった関係なのか、それは彼自身の口から語られることでしか知る術がない。だが彼は口を開こうとはしない。ただ、沈黙を守って彼女を待つだけである。
広い屋敷はいつも以上に静かで、それでも主がいるだけで空気が違っていた。何がどう、というわけではない。けれど確実にこの家に変化があった。
は朝起きて軽く体を動かした後、クレオとパーンと共に朝食を取る。食後は朝の市を見て回り屋敷に帰ってくる。そのあとはの眠っている部屋で本を読んでいる。昔は苦手だといって避けていた父の本ばかり、彼は読み進めている。
クレオは家の管理を担当し時折紋章の指南にも出ている。今は指南は休んでたちの世話を優先すると言って聞かない。パーンは城で武術指南を任されているが以前から昼食は必ず屋敷で取っていた。なので昼食は三人で取る。
午後、パーンは再び城へと戻りクレオは庭の手入れをしたり部屋の整理をする。普段であれば時折訪れるかつての仲間をもてなす。
ただこの一週間、客はいなかった。誰が来ても断るようにと主が言うのだ。
は午後も本を読み続けた。時折、をじっと見つめることがあるのをクレオは知らないふりをしている。
「ねえクレオ」
「何ですか」
今のの瞳にはが映っている。息一つ乱さず、顔色も悪くない。ただ眠っているだけの彼女は未だに目を覚まさない。毒も消え、憂慮すべき点は何一つないというのに、だ。
クレオはの姿にかつて見た優しさを見つけていた。彼がこの三年で失ったかもしれない感情の数々を眠り続ける少女は見出したのだろう。そして救い出した。クレオには出来ないことだった。他の誰にも。
少女はきっと何も知らなかったのだろう。何も知らない彼女にクレオは感謝するばかりだった。そして一秒でも早い目覚めを願っている。
「今はすごく静かだけど、よく喋るんだよ」
「何のことです?」
「のこと。クレオはまだ喋ったことないからわからないだろうけどね」
は左手で彼女の頭を撫でた。身じろぎすらせず彼女はの手を受け入れる。
閉じられた瞳の色をクレオは知らない。どんな瞳かわからないが、きっと生に満ち溢れた瞳だろうと、クレオは想像する。
「どんな方なんです?」
「優しい子だよ。とても」
たった一言。それでもそこに込められた思いがどれだけのものなのか。口にするの表情にクレオはハッとさせられる。当たり前だと思っていた表情がそこにあった。
うららかな午後、パーンは城で兵士相手に活を入れているだろう。街では多くの人が大通りを歩き、通りの店では客を呼ぶ声が絶えないに違いない。
屋敷はただひたすらに静かだった。彼女について応える声は穏やかだった。
「クレオ、俺は誰も傷つけたくなかった。それに、もう傷つきたくもなかった。これ以上大事なものなんて増やしたくはなかったし、なくしたくもなかった」
「坊ちゃん」
この国が平和を謳歌するためにどれだけの血が流れたのか、どれだけの涙が流れたのか、クレオは正確には知らない。ただ目の前で倒れる人間も、悲しみに暮れる人間も見続けた。
今目の前で悲しそうに微笑む人が傷ついて、それでもなおくじけず進み続ける姿をただ背中を追い続けた。振り返った時に倒れた無様な姿を晒すものかと、ただひたすらに彼を見失わぬように進んだ。
大統領の座を放り出した彼を罵る人間など軍にいた人間にはいなかった。少なくとも、彼をよく知る仲間からそんな言葉を聞いたことがない。誰もが黙って彼を見送った。彼が突然姿をくらませたことに何一つ言葉を発しなかった。
それだけ、一番前に立ちたくさんのものを背負っていた少年は傷だらけだった。
「振り切ってきたはずなのにね。……テッドも、こんな気持ちだったのかな」
の頭の中に浮かぶ彼はいつも笑っている。と、嬉しそうに名を呼んでくる。今日はどこに行こう、何をやろう。彼の言葉は楽しいことばかりではいつも彼と共にいて笑顔ばかり浮かべていた。
時折思い浮かぶ辛そうな顔だって深く記憶に刻み込まれている。託されたものの重さにはときどき暗い思いを隠せない。それでも、思い起こす友の姿は笑顔だった。
「とても、大切にされてるんですね」
「少なくとも、この身で離れ難いぐらいにね」
その冗談めいた言葉で十分だった。
彼女は何も聞いてはいないだろう。はクレオが知る限り誰よりも優しい。優しいから離れる。理由を言わず、傷つける前に、自分が傷ついても離れていく。幸か不幸か、今回の件はを今までとは変えたのだろう。
クレオはただ願うばかりだ。傍にいられないのなら、いつ振り返ってもここにいると、クレオは守り続ける。
「さんと、いろいろとお話がしたいです」
「この辺のことは詳しくないからものすごく質問され続けると思うよ」
くすくすと笑うが眩しくて、クレオは少しだけ目を伏せた。
就寝前にはおやすみの挨拶をにする。本来ならば年頃の女性の部屋に男が入るなど言語道断だが、今だけは誰もそれについては口にしない。
燭台を寝台の脇に置いて暗闇の中彼は彼女を見つめる。
「ねえ、眠り姫は口付けしたら目覚めるんだっけ」
からかうように口にした言葉に、普段の彼女ならば呆れたようにを見るのだ。それから残念ながら起きているだとか、そういうことを口にするのだろう。
口付けなど望んでもいない。彼が望むのはたった一つ。
「……口付けなんて、したら殴る」
掠れた声を耳にした瞬間の体は勝手に動いていた。体を引き起こし言葉を発する暇も与えずその腕の中に彼女を捉えていた。
そのわずかな間なすがままにされていた彼女もその状態に陥ってしばらくするとようやく事態を把握したらしい。訝しげに彼の名を呼んだ。
「おはよう、」
「おはよう?……結構、寝てた?」
「計十日ぐらい」
息を呑むの耳元でがふふと笑う。の方に顔をうずめるように、必死に彼はを掴まえている。
声はの知るのものだったけれど妙に強張った腕も、加減の知らない力も、には心配をさせてしまったということを実感させるに十分だった。
「遅いって言ってごめん」
「実際遅かったし、こっちこそごめん」
「無事に起きたから気にしなくて良いでしょ」
「ごめん」
けがに対する謝罪以上のものが多分に含まれたその一言には沈黙を余儀なくされる。
その重たい空気にが連想したのは夢で聞いたことだった。が知らず知らず関わっている害悪。なぜか頭に浮かんだ。
「……、」
迷いながら名を呼べば応えが返ってくる。緩む気配のない腕に苦笑いを浮かべる。子どもにするようにはとんとんと彼の背中をたたいた。
「泣くなよ、男の子」
「泣いてないって」
どちらからともなく、お互いくすくすと笑い合う。
ただ、笑い合ったそのあとでも離れない彼を、はただ受け入れていた。
(枕よりはぼくのほうが)