それは彼という人物を知っている者からすればごく当たり前の彼らしい行動だったがここ数年の彼を知る者から見れば信じられない出来事ではあった。
「様が帰ってきた!?」
マクドール邸に届いた知らせは衝撃的だった。
三年近く姿を眩ませていた主の帰還というだけでも驚愕の事実だというのに彼は今旅の連れの看護で城に泊まり込んでいるという。旅の連れ。孤独と思っていた、誰も寄せつかないと思っていた主の姿がぶれた。一瞬クレオの中には在りし日の主の姿が見えたのだ。この知らせ以上に驚くことはそうないだろう。
なんにしろ、居ても経ってもいられない知らせだった。
もう日も沈んではいたけれどクレオは出来る限りの用意をして脇目も振らず王城に駆け込んだ。後ろでわめく声が聞こえたが無視した。どうせ彼女の後をついてくるのはわかりきっている。
マクドール家は王城からそう遠くない位置にあるのだがその道のりがクレオには遠く感じられた。いつもなら大した距離ではないのにもどかしいほどに隔たっている。城門を抜けただひたすらに走る。
声をかけられたかもしれない。いつものクレオなら急いでいても何かしら対応していただろう。今はそれどころではなかったのだ。駆けに駆けた。
城内に入る手続きすら煩わしいものの必死の思いでくぐり抜け力の限り扉を開ければ声がした。クレオの知る声だ。聞き慣れていたはずの声。以前よりも落ち着いている。
患者がいるから静かに、とほほ笑まれた瞬間クレオは涙が溢れた。
「坊ちゃん!」
最後に別れた時と変わらない、己の主人がそこにいた。
「クレオお前早いぞ!」
「クレオ、パーン、久しぶり」
クレオの後を追ってきたのはパーンだった。
二人ともここに来るまでに息一つ乱さなかった。日頃から訓練しているからだ。この程度の距離は簡単なものだった。
ただ、かけられた声に二人共が息をのんだ。三年、決して耳にすることができなかった声。自分たちのために紡がれた言葉だった。そして言葉には確かに喜びがあった。
「おかえりなさい、坊ちゃん」
もうマクドール家の当主はなのだ。坊ちゃんというのはおかしいのだがクレオの口からは気づけばその言葉が出てきた。パーンも同じように口にしている。
クレオとパーンが守ってきた人だった。守っていきたい人だった。それを拒絶する優しい人でもあった。それこそ、・マクドールという人だった。
「リュウカン先生には今日は帰れって言われてるんだ。他にも家に招待したい人がいるんだけど、いいかな」
まるで昨日も言葉を交わしたような調子だった。ぎこちなさもなにもない。少し、クレオの知っている笑顔よりは静かなものになったことが時の経過を感じさせた。
「そちらの女性は?」
ああ、と寝台の女性に視線を向けた。その姿にクレオは驚いた。隣のパーンもさすがにはっとしたようだった。
一人で出て行ってしまったを心配していた。クレオとパーンは二人でいつも心配し、そして願っていた。旅先でが孤独な寂しい日々を送らぬようにと、理解してくれる誰かがいるようにと。
ただそれをが拒絶することは容易に想像がついた。彼は最初に他人を考えることが多かった。
「っていうんだ。少し前から一緒に旅をしてる」
それだけで良かった。微笑みがクレオとパーンを安堵させた。
はリュウカンにもう一度挨拶をし別室にいたたちと共にマクドール邸へと歩を進めた。
たちの中には外国であるトランに興味津津といった様子の者もいる。夕飯まで散策すればいいとが口にすれば少女が一人パッと明るい笑みを見せた。
「あ、でもさんが」
「なら大丈夫。もう峠は越えてるって話だし、リュウカン先生から追い出されちゃったからね。ナナミちゃんたちはグレッグミンスターを満喫したら良いよ。良い街だから」
自身が再興された街を見て回ったわけではない。ただ街のあり様は通りを通るだけでもおおよそは分かるものだ。生まれたばかりの国は生きる力で満ち溢れている。
結局屋敷に着いたあと街に出たのはとナナミ、それからハンナにチャコだった。シーナは城で父親に捕まり今頃はお説教中である。ルックは家の書庫の場所を聞くなりこもった。
夕餉までそれほど時間はなかったがは一人で外出した。
クレオとパーンが心配そうにしたが行き先を伝えればただ黙って送り出してくれた。
グレッグミンスターは三年の時を経て以前と同じような賑わいを見せるようになっていた。が生まれ育った赤月帝国の頃と変わらぬ姿だ。民は変わらない。ただ上に立つ者が民を変えるのだ。
自分に声をかけてくる者がいるかもしれない、とは少し考えたけれどそれはなかった。
目的地に行くまでの途中で店に寄り、ゆっくりと街を見ながら歩いた。
「何年振りだろう」
たどり着いた先は墓地である。グレッグミンスターの民の墓は街外れにありマクドール家の墓もまたこの中にあるのだ。
幼いころは母の墓参りに来ていた。年に一度、よほど忙しいときでなければテオはと共に静かに命日を過ごした。月に一度、花を供えていたこともテオの習慣だった。
帝都を追われた日から赤月帝国が終わる日まで墓参りには来られなかった。最後に来たのは国が斃れた日でありが国を出ようと一人旅立った日だった。
「母さん、父さん……それに、グレミオ。久しぶりだね」
白い花を供えた。母が好きだったという花だ。テオはいつもその花を供えた。テオが忙しい日ははグレミオを伴って同じように白い花を供えたものだ。
はぽつぽつとこの三年の間の話をした。
慣れた旅でも一人旅は初めてだった。仲間に囲まれた旅との違い、国を出て初めて気づいたこと、出会った人々。解放軍の軍主として出会うのではない、・マクドールとしての出会い。語ることは尽きない。
ただ三年の日々の中でも鮮烈であったのはとの旅の日々だったとは思っている。人を避け続けたがここまで人を受け入れたことはない。不思議なほど馴染んでいた。
「俺は、いつかから離れるべきだと思う」
今はまだいい。なんとなくだがも紋章のことはわかる。まだ、紋章はを喰らおうとはしていない。最上の時を狙っているような、獣がじっと潜んでいる気配だった。
強く優しかった女性を始めに己の父も、母親代わりだった人も紋章が喰らった。前の継承者である親友すら紋章は手にかけた。にもいずれはその牙が向くだろう。はそれをわかっている。
「でも、まだ抗っていたい。ならもしかしたら、とそう思うんだ」
答えはない。誰もに答えはくれない。はただ死者に言葉を投げかけるしかできない。そして自身と語り合うしかないのだ。
風が吹く。それは背中から吹くものだ。は花を見つめた。
「後悔だけは、しない生き方をしたいよ」
虫が良いのかもしれない。背中を押す風に何か優しく笑う声が聞こえた気がした。
大丈夫ですよ。やわらかな物言いだったりそれは様々だった。それでも聞こえた気がした。
彼の身の呪いを知った上で隣にいてほしいなど、虫の良い話ということは百も承知だった。それでも声は力づけてくれているようだった。
「足掻けるだけ足掻いてみるよ」
失いたくない。だからこそ、とは前へ進みだす。
立ち去ったの背中では添えられた白い花が風に揺られていた。
(亡き皇太子を偲ぶ)