心を許した唯一の人以外には興味を覚えないセインが珍しく一人の人間相手に取り乱し必死になっていた頃、飛ばされた当人は腰を強か打ちつけて地面で声にならない悲鳴を上げていた。
そしてその痛みに耐え切った後、彼女が口にしたのは不安の色が滲むものでもなんでもない。怒りだった。
「セイン帰ったらぶっ飛ばす。あの秀麗なる顔に一発ぶち込んでやらんと気が済まない!」
龍を相手にそんな恐ろしいことを言える人間など彼女の世界でも稀だろう。神のような、雲の上の存在。その存在に近しい場所にいる星竜をぶん殴る。そんな恐れ多いことを考えることなど誰もしない。
舌打ちをする様は少女の見た目からは不似合いだ。見た目だけはどこにでもいる少女だし、魔法使いだと判断されてもこんなに悪辣な表情を浮かべていては悪の魔法使いと言われかねないだろう。
「というかここどこなの! ミズベじゃなさそうだけど」
ミズベというのは彼女が先ほどまでセインと言い合いをしていた国の名だ。大陸の中でも中央に位置し、各国との協力を取れば流通の要衝地非常に豊かになれる国でもある。戦争や王家の一時亡命などかなり波乱のあった国だがこの数年で属国となった故国を取り戻し政務に励むのは英雄として名を冠している王子だ。彼が今後即位し数年もすれば昔以上に栄えるだろう。
そのミズベは水龍の守護を受けている。偉大なる龍は普段は人と交流せず遠くから人々の営みを見守っている。だが性質として人間に多大な好奇心を持ち、国を治める王家という血筋に親愛を誓うことがある。ミズベも親愛を誓われた王家の一つである。水龍の加護を受けているミズベは領地に水が溢れ街道の近くは探し始めたらすぐに水場を見つけられるほどだ。
しかし今彼女が立っている場所は加護が感じられない。湖が視界に映っているし草原もある。土地が枯れていないことは確かなのだが先ほどまで感じていた魔法の息吹が感じられない。満ち溢れていた魔力の空気はここではほとんど言っていいほどないのだ。
「水と火の魔法で空間が裂けた。あのセインは星竜。元々火の魔法も水の魔法も火龍と水龍が力を庇護してる。火龍と水龍は空間の力を司っている……いや、まさかそりゃないでしょうよ」
口に出して己に起きたことを整理してみたところとんでもない事実が彼女の頭に浮かぶ。背中から嫌な汗が流れるぐらいだ。それは彼女にとってあり得ないことだった。己の星竜への喧嘩を売ること以上に、それはあってはならないことだ。
魔法の息吹が感じられないと気付いた瞬間には予想していたことだったが無意識のうちに拒否反応を起こしていた。
あのとき魔法は空間を切り裂き彼女を捉えた。なぜセインは標的にならなかったかというと彼が星竜だからだ。彼女がいくら頑張って己の人生で最高と思われる技術を結集して魔法を編み出してもセインの織り成す魔法には敵わない。それは比べるだけ無駄なのだ。神と人間の技量の差を比べると等しいことである。
だから彼女が出した水の魔法は当然セインの火に飲まれその結果は力の弱い彼女の方に返ってきた。そして彼女は空間に飲まれた。その属性のどちらもが空間により強い影響を持つ魔法であり、彼女は人間にしては極上の魔法の腕を持っていた。そして相手は合いの子とはいえ龍だ。空間能力に優れた水龍か火龍を親に持っていても不思議はない。
裂けた空間に飲まれた人間がどこに行くのか。それを彼女は知らないが龍の息吹く世界ではない可能性は大いにあり得た。
「もう! ここ、どこなのよ!」
普段は冴え渡る魔法もここではろくに発動できそうもない。魔法の加護が薄く、魔力を探ろうとすれば質の違う何かが流れていることしか感じ取れないのだ。試しに精霊を呼んでみたが反応しなかった。一番下位の魔法を唱えてもそれは同じだ。くすぶるような反応だけが残った。それも自らの魔力の残滓に反応しただけのものなのは明らかだった。
草原に魔法使いが一人。不幸中の幸いといえば彼女が魔法使いらしく法衣を身につけることを厭い非常に動きやすいたび装束というところ。魔法使いにしては珍しく何かあったときの用心だということで格闘技を修めているところだ。
魔法を使えるならばどこにいようと彼女は自信満々だったに違いないがあいにくその自慢の魔法は冴えない。今頼れるのは己の身一つというわけだ。
運が良いのか今のところ空は青空が広がっている。日が暮れるまでは時間があるし、天候が荒れる気配もない。
「とりあえず、人のいるところにいくしかないか」
セインは待っていろと言ったがどれぐらいかかるかは不明だ。彼にとっても予想外のことでなおかつ自身の手では対処し切れなかった事件だ。消える間際にかけられた追跡魔法は彼女の右手の甲に紋様として浮かんでいる。迎えに来てくれたときはこれが光るのだろう。
問題はここがおそらくは龍が存在しない世界だということだ。龍は空間を渡ることすら可能だという文献はとても少ないがあるにはある。それが真実かどうかははっきりしないところだが彼女はそれが事実だと確信している。龍の力は世界を越えられるだけの力なのだ。
彼女は龍に憧れていたし、畏敬の念を抱いていた。
「これは私がセインに文句を言っても許される案件よね」
元々彼女は先ほどまでいたミズベの国ではなく、魔法大国と呼ばれるフウキという国の生まれだ。そこで孤児ながらも魔法の才があるということで国の奨学制度を数多のライバルからもぎ取り蹴落とし国立の魔法学院を首席で卒業した。飛び級をして周りの嫌味たらしい年上の同級生を近づけない様は大昔同じように飛びぬけた才能を持っていたとある魔法使いに似ていたがそれはだれも知ることのない話だ。
首席で卒業し就職先も安泰、将来は国中の魔法使いが憧れる七賢者という職も十分に狙えたのだが残念ながら空きがなかった為国の為にぜひと誘われ下っ端からの魔法の部署での役所勤めが始まった。
ただ彼女のお役所勤めは二年も持たなかった。現在の七賢者が比較的若い者ばかりで席が空く日は数十年は先の話だったしさらに事務仕事の多い当時の仕事は彼女にとって苦ではなかったが実地の仕事が少なすぎて飽きが来たのだ。
勤めて一年半ば。給料は良かった。同僚もそう悪いものでもなかった。ただ、性に合わなかったのだ。今まで稼いだお金のほとんどを孤児院に送付し国を飛び出した。彼女が二十歳のときだ。何の因果か、彼女の国の大賢者と呼ばれる魔法使いと同じ歳での出奔である。
「だーれかー! 人はいませんかー」
少女、と言うに相応しい見かけだが彼女は現在二十二歳。魔法使いは魔力の総量に寄って見かけの年が他の人と異なることがあり、彼女もそういう特徴の人間だった。見た目だけなら着飾らないと十七、八に見えるだろう。本人は特に気にもしていない。たまに気の良い商店からおまけしてもらえる機会に恵まれたと思う程度だ。
ふらふらと旅を続け、着の身着のままは楽しかったが高給取りをまた少しやってお金を稼ごうというよこしまな考えの元、役所勤めが肌に合わないことは分かっていながらも旅先のミズベに押しかけたのだ。雇ってもらえる算段もなかったし面白半分だったが予想外の出会いにより当初の目的をそっちのけで王城に通うことになった。常識はあるのだが非常識を貫く変わり者である。
「……人、どこにもいない」
今彼女は湖に向かって歩いている。水があるところには人は自然と集まるものだ。街道が見つかれば万々歳。なくても湖に沿って歩けば村や街の一つはあるだろう。
既に見たこともない魔物と何度か鉢合わせたが撃退は出来ている。不思議なことに息絶えると塵のようにあっという間に消える魔物を見て、やはりここは自身の住む世界ではないのだと再認識した。
どのぐらいの時間歩いただろうか。そろそろ人に出会わなければまずいなと、傾いた太陽を見て彼女は焦りだしていた。
「ん?」
人、人、と呪文のように唱え続ける彼女の目に草原とは違う景色が映った。微かだが緑ではない、そして人の立ち姿を捉えたのだ。
その後彼女の行動は早かった。人を見つけた場所を視界の中心に据え走り出す。これが人でありますようにと願い人だと確信を持った瞬間、叫んだ。
「ひとだー!!」
それなりに距離があったのだが聞こえたらしい。相手が振り返り、彼女を捉えた。そして辺りを確認して自分のことかと指を差す。彼女は分かるように手を振った。相手が人殺しでも何でも良い。今は会えるだけでよかった。
息切れも何も気にせずとにかく彼女は走った。走って、走って、驚いて呆然としている相手の近くまで来てようやく足を止めた。
「あのさ、人がいる場所知らない? ていうか助けてくださいお願いしますじゃないとそろそろ死ぬ」
そう早口で言い切った直後、彼女はばたりと草原で意識を手放した。
(奇妙な違和感)