「コウくんは英雄に憧れる?」
「うん! ぼくさまに憧れてる。それに、トランの英雄にも!」
は今日も飽きずに村の奥で釣りをしている。隠居した老人のような生活だがは満更でもないらしく一人じっと釣りを楽しんでいた。
も最初は釣りを楽しんでいたのだが何日も続けると飽きてきた。村にある子ども用の本を読もうと四苦八苦してみたりルックから教えてもらった紋章の理論について考察してみたり、村の外れで紋章の訓練をしたりと好き勝手にやっていた。
この暇そうな滞在者に村の者は特に何も言わなかった。二人とも村人が何かに困っていたら気軽に声をかけ手伝ったし愛想も良かったのでどういう二人なのか、どういう旅をしているかは気にならなかったのだ。平穏を崩さない良き旅人を村人は概ね歓迎するものだ。
二人を本物の様と姉と思っているのは目の前のコウ少年だけだ。今日も釣り場に向かって話をしたそうにしていたところをが呼び止めた。彼のはしゃぎようでは魚は逃げてしまうからだ。池への一本道の前で二人でのんびりと話していた。
「トランの英雄?」
「お姉ちゃん知らないの?」
「世間知らずだからね」
元々こちらに来てからまだ半年も経っていないのだ。知らないことは山ほどある。から教えてもらったことも主に旅をしてきた都市同盟についてだ。隣国については現在交戦中のハイランド皇国の方をよく耳にした。
トラン共和国。数年前に赤月帝国という国を倒して生まれた新しい国ということしかは知らない。は今の時点で必要なものを先に教えていったのでそれ以上を語らなかった。
たちを軍主とその姉と勘違いしてくれたのは目の前のコウという少年だった。良く言えば活発。悪く言えば腕白な少年。
山奥の村で少年は英雄の話を聞いてその華々しい話に憧れたのだろう。も自身の世界を旅しているときにそういった子どもたちを見たことがある。彼女が滞在していたミズベ国も王子が十年の歳月を経て国を取り戻したばかりだった。吟遊詩人によって王子の活躍は美しい歌に歌われた。
伝わる話は現実に起こった多くの悲劇を隠し美化される。人々の口から伝わる話も壮大な、美しいとされる部分ばかりが強調されていくものだ。それを聞いた年端も行かぬ子どもたちが英雄に憧れることは何ら不思議なことではない。
「しんじられない! トランの英雄っていったらぼくでも知ってるのに」
「どんな人なの?」
「赤月帝国を倒した、すごい人だよ!」
大人から聞いたことらしくコウ少年は誇らしげに口にした。詳しくはよくわからないらしい。ただ今軍を率いている軍主と歳の変わらぬ少年がトランの英雄だったという。コウはまだ小さくてよくわからなかったらしいがそれでも英雄への羨望は確かだ。
は元の世界でも英雄と呼ばれるような偉人に会ったことはない。けれど龍と出会ったことはある。の世界の人間が畏敬の念を抱く存在だ。星竜にも会った。
会ってが感じたことは畏敬の念を抱かれている存在であっても同じ生きる存在だということだ。感情があり心を持ち何より生きている。尊き存在であれど、自分と何ら変わりないのだと思ったのだ。
龍でもそう感じるのだ。当然、英雄と称されるトランの少年も、今闘っている様もすごい人であっても人間なのだと思う。美化されるその姿だけがその人を表すわけではない。子ども相手だったが無意識のうちに口を開きかけた時、声が後ろから降ってきた。
「英雄も、ただの人だと思うけどな」
「え! 様!」
「あれ、釣りはおしまい?」
いつの間にやってきたのか。コウは突然やってきたに驚いて声を上げる。は気づいていたので当たり前のように声をかけた。
様と呼ぶのはコウだけだ。彼の中ではとという名前はお忍の名前らしい。随分と想像力を働かせている。お忍びと想像していても噂の人の名前を呼びたくて仕方がないらしい。うきうきと呼んでいる。申し訳程度には少年の前ではの名前をなるべく呼ばないようにしていた。
「うん、今日はもうおしまい」
「英雄もただの人ってどういうことですか?」
を見上げるコウの目は不満でいっぱいだった。彼の憧れる英雄は彼とはかけ離れた存在なのだ。自分と同じわけがない。目の前で正体を偽っているだろうこの人もまた、自分とは違う大きな存在だと少年は信じて疑わない。それをただの人と呼ばれれば怒りたくもなるのだろう。
三人の間に風が吹き抜けは髪を揺らされる。
風で乱れた髪を抑える一瞬、はの表情を見逃した。その笑みが歪んでいたことに気づいた人は誰もいなかった。
「英雄も人で、コウくんと同じだよってこと」
「そんなわけない! だって、様は英雄なんだから。すごく強くて、大きいんだ」
「……なるほどね」
何と言えば良いだろうかとは考えるが言葉に迷っていた。彼にしては珍しく、回答に困る反応だったのだろう。
はに視線を向けたが芳しくないままだ。仕方がないと、コウの目の前で膝を折った。コウと真正面から真っ直ぐ目が合う。
コウは少し驚きながらもにこりと微笑みかけてきたを見つめ返した。
「今聞いてて思ったんだけどね、コウくん」
「なに?」
「英雄がただの人ってことは、だ。コウくんだって英雄になれる可能性があるってことだよ」
きょとんと、何を言われたのか最初はわからなかったらしい。ただ目をパチパチと瞬かせていた。それでも段々と意味がわかってきたらしい。瞳に光が灯ってきた。
ただコウの瞳に光が灯ってきたこととは反対にの表情は曇っていく。はその表情の変化を目にしたわけではないが重くなる雰囲気を感じつつ知らん振りをした。彼よりも今は目の前の少年だった。
「なろうと思ってなれるものじゃないだろうけどね。でも英雄も元々はコウくんと変わらないって考えると少し近くならない?」
「……うん!」
花を咲かせたように輝く笑顔を浮かべるコウは自分が英雄の想像でもしたのかもしれない。
「ところでそろそろ家の手伝いしないとまずいんじゃない?」
「あ! まずい。様、お姉ちゃん、またね!」
コウはあっという間に走り去って行った。
軽い足音が遠くなってからは膝の土を払い立ち上がった。そして隣に立ちつくしたままのの顔を見てため息。
おいで、とはの手を取りが釣りをしていた池の方へと向かう。あそこはが日中占拠しているため用事がない限り誰も来ない。
村からは見えないところまで来てはようやく立ち止まった。の顔をもう一度確認してまた顔を顰めた。
「ひどい顔だよ」
「だろうね」
自覚はあるらしい。自嘲するように顔を歪めては目を伏せた。
どうもいけなかった。は彼女の前では弱くなる。嘘くさい笑みすら浮かべられない。取り繕うことすら出来ない。わかりやすい嘘しか、取り繕いしかできない。
いつの間にこんなことになっていたのか。にはわからなかった。ただ、目の前の彼女に依存しかけていることは痛いほどに理解していた。
「そんな顔になるぐらいなら適当に流せば良かったのに」
「つい」
「馬鹿だね」
は笑ったが、下手くそな作り笑いだ。
掴んだままの手をは力いっぱい引っ張り自分よりも長身のの頭を自分の肩に載せた。それからゆっくりとその背中をたたいた。とんとんと、赤子をあやすように手は優しかった。
優しく拒絶されることを予想した手はそのまま受け入れられる。
「はずるいよ」
「ずるいって……あのねえ」
「俺にこれ以上優しくしないでよ」
すがるような声で拒絶を口にしを抱きしめて離さない腕がある。それを理解していてどうして手を離すことなど出来るだろうか。少なくともはその腕から抜け出すこともそのすがる声を無視することもできなかった。
離れた場所から村のざわめきが聞こえてくる。風の音がする。水の揺れる気配がする。全てここからは遠い。
「馬鹿だね」
もう一度繰り返しては震えるを優しく包んだ。
(お前の苦しみはお前だけの)