ラダトでは一拍だけの滞在のはずだったが結局もう一泊することになった。今朝様子を見てきたが進軍するかもしれないと言ったのだ。前日出会った軍師の様子からは見当もつかなかったがそうなのかとは納得した。
 旅の疲れが溜まっていたのかその日は昼間はぼんやりと横になり、結局夜まで部屋で過ごした。

 夕食を終え、明日出発することを考えれば休んだ方が良かったが、は宿の人に借りた紙とペンで短い手紙を書くとの部屋にやって来た。
 夜更けとは言わないが旅の連れであっても訪うには気を遣う時間だ。それでもが部屋に入れてくれと言えばは仕方がないと入れてくれた。

「わざわざ夜に男の部屋に来るのは流石にオススメしないな」
「手紙、というか遺書を書いたから渡しておこうと思って」

 遺書という言葉にはぎょっとしてを見たのだが宛ではないと言われてしまった。そういうことではないがは気にも留めない。

「ここの文字は書けないからさ。喋れるだけ加護の力様様だけどね」

 の書く文字はの知るものとは違う。会話は不自由していないが文字は違う。は未だにまともに字が書けない。もちろん本も読めない。
 魔法使いというものは実戦派もいるが誰もが魔術書を読んで知識を増やしていく。当然この世界でもそういう理念はある。
 魔術所なんていうものは高等学術書なのでかろうじて街の看板の文字が読めるようになったには到底手が出せない。そんなことをするよりは会得した人間を捜して教えを請う方が早かった。

 そのが遺書を書いたという。それも宛でないのなら相手はこの世界の人間ではない。の世界の人間であることは明らかだ。
 どこから手に入れたのか真っ白な封筒をテーブルに置きはあっけらかんと笑った。

「私のことをセインって生意気な奴が迎えに来てくれるはずだって話はしたでしょう? でもいつになるかさっぱりだから。もし来たときに死んでたら困るなと思ってに預けようかなと」
「別に、来るまで待てば良いだろう? はそんなに簡単にやられるわけないよ」

 褒め言葉なのか、どうなのか。判断に困るところだがはとりあえず判断を保留にした。今は口げんかするよりも大事なことがある。
 の脳裏には以前夢に見た美しい人が思い浮かぶ。この世の何よりも尊く美しく愛しき存在。に希望を与えてくれる。そんな龍の一人が告げてきた事実。それはずっとの心に残り続けている。
 それをまだは一度も口にしたことがなかった。いつか別れるかもしれない旅の相棒は、それを託すと重荷になるかもしれない。そう思っていた。
 けれど、それでも少しだけ、は踏み出した。踏み込むためではなく、線引きを一歩自らに近づけるように引き直す。

「私が生きている間に来られないかも知れない」
「そういう悲観的なこと言わない。人生百年はあるから」
「……あー、そういう意味なら見込みはある、かな」

 の曖昧な言葉にが首を傾げた。
 の世界では魔法使いというものはその魔力の大きさによって差はあるものの総じて歳を取る速度が緩やかだ。三十を過ぎても見た目は二十代前半ということは少なくない。女性などはとくにこの見た目については気合を入れていることもあり年齢不詳が多い。
 老化が緩やかであり寿命も普通の人間よりも長い。の知っている有名な魔法使いは三百余年は生きた。大賢者と称されるほどの人は普通の人の三倍以上生きるのだ。も少なくとも二倍は生きるだろう。なにせ星竜と魔法合戦できる腕なのだから。
 それを説明したことはなかったがもしもこの旅がもう少し長く続くのならばそれを話す日も来るだろう。
 ただ今は目の前のが表情を固くしている。それをなんとかしなければ前に進めない。

「死を考えると死を呼び寄せるからやめとくように。俺はその手紙は受け取れない」
「うーん、手紙がダメなら、に言伝ようか」
「はい?」

 話の流れを無視するような発言である。はイイ笑顔でに聞き返していた。
 の方は気にするでもなく微笑んだ。

「死んだわけでもなく、私が諸事情でセインと話せなかった場合の保険」
「いやだよ」
「うん。気にしてないって、言っておいて」

 の意見は通らないらしい。は全て無視する形で勝手にしゃべり始める。が渋面を見せてもは口を閉じはしない。

「気にしないから、悔やむことなく罪を感じることなく生きてって」
「……それって、セインに対して?」
「そう。偉そうにするくせに結局は今もきっと迷惑をかけてる。子どもみたいでも、人を慈しむ存在だから」

 最初は随分と相手のことで熱のこもった発言の多かっただが水龍の夢を見た日から少しずつその言葉は穏やかに落ち着き始めた。セインと名を呼ぶ時、その声こそが慈しみのこもったものになっている。
 は立ち上がり窓から空を見る。満天の星の。夜空には雲ひとつない。カーテンを開ければ月明かりがを包み込む。
 はその背中を見つめる。先ほどの言葉に何の意図もなかったのか。それだけが気がかりだったが答えは聞くことなど出来ない。聞くことが既に秘密の暴露なのだ。それだけは出来ない。


「……まだ言伝?」
「ううん。実は言いたいことあってさ、言いに来た」

 顔が見えない。お互いに今相手がどんな表情なのか何を思っているのかを知り得ることはできない。は星空を見つめの背中を見つめた。
 は背中から感じる視線に気付いていたしこの空気がかもし出すものにが怯えていることも知っていた。怯えなど存在しないように振舞う少年は何よりも人との関わりにおいて何か怯えていた。
 戦いのときは怯まず棍を振るい目の前を阻むものには躊躇しない彼は、何よりも人を恐れている。それを、は知っている。

「ありがとう」
「……何が?」
「もう一日いようって言ったの、私の不調見抜いてたからでしょう」

 二人を静かに圧迫していた重い空気は少しだけ軽くなった。

「……自分でも、分かってたんだ」
「なんか妙にもう一泊にこだわるから変だなとは思ってた。今日起きてから気づいたよ」

 自分ですら気づかなかった不調の兆しだ。なぜと問えば戦闘の蹴りの冴えがなかったと。何度も戦えばそれぐらいはわかるよと言われはバツの悪い思いだ。少し体が重かったのは事実だが気遣われる程だと気づけなかったのは痛い。
 体調管理は旅において非常に重要だ。調子が悪いまま悪天候に見舞われたり魔物に襲われたりしたら一大事である。よほどの急ぎ旅でなければ調子が戻るまで宿で大人しくすることが得策である。の不調は今からの道程を考えれば軍の危険があっても留まった方が良いと判断されたのだ。

「昨日出掛けたから焦ったよ」
「ちょっと買い足し忘れたものもあったから」
「……言ってくれれば良かったのに」
「ごめんって」

 見当がついているだろうにそれでも気遣われては降参である。
 本来ならこんな戦地になる可能性がある場所など早々に立ち去るべきだ。新同盟軍がラダトの街を襲うとは到底思えないがハイランドが負けた場合敗走するハイランド兵がラダトの街に手を出さないとは限らない。出陣前だって宿に長く滞在すればするほど目をつけられやすくなる。ハイランド軍が駐屯している間に現れた男女二人は密偵に見られてもおかしくない。
 それをがあえて残ったのはひとえにの為だった。たいしてひどいことではないかもしれない。けれど旅という怖さを知っているは危険はあれど街中の最低限の治安の良さを見て逗留を選んだ。

「ありがとう。これでも感謝してるんだよ。明日にはちゃんと元気になる」

 外に目を向けていたは振り返りふわり、微笑んだ。それから苦笑いを浮かべるに近づいた。
 は自分以外の体温が一瞬体を包むのを感じて固まった。離れ際、ふわりと香るのは普段からする香りだった。

「おやすみ」

 悪戯をした子どものように笑いながら立ち去ったの背中を見続けるしかなかったは手で顔を押さえたまま彼にしては珍しく悪態をついていた。


(私が今、生きる世界)