戦争が身近にあるだなんて信じられない穏やかな気候と町の雰囲気だった。
クスクスという街が戦地から離れた土地であり対岸との行き来が不可能となっている今は軍事的価値がないのも要因の一つではあろう。
クスクスの隅、今日も飽くことなく一人の少年が釣りをしている。普段なら隣に少女の姿もあるのだが今日は姿が見えない。
そこへ、計ったようにある人物が近づいてきた。静かに、ただ確実に少年を捉えていた。
「ほお、懐かしい気配がしたと思ったのだが」
「……俺のこと?」
少女の声色ではあったのだがしゃべり方が随分と古めかしい。彼が振り向いてみれば美少女がそこにいる。笑みを浮かべているのだがそれがまた一癖ありそうな笑みで彼は心の中で苦笑い。経験から少々厄介だと勘付いていた。
美しい銀糸の髪、人を飲み込むような紅い瞳。およそ旅人には見えない様だが荷物を見るところ旅人ということは分かる。思わず目に留めてしまう人も少なくはなかったが少女はそんな視線をものともせずただ少年のみを見ていた。
「あれも童だったが、おんしは今その歳通りの歳かえ?」
「……何のことですか」
「ふむ。しらを切る気か」
面白い、と言いたげに笑みを深める少女は上から彼を見ている。そう歳も変わらぬ相手のはずだったが不愉快にならないのはおそらく相手が年上だと理解しているからだ。
退く気のない少女。状況を見定める少年。
一見見詰め合っているようにも見える光景だったがその実生きるか死ぬかの瀬戸際のような空気をかもし出していた。
「まあ、警戒せぬほどの愚か者ならすぐ紋章に喰われるだろうから及第点と言ったところか」
世間話のように口にされるそれはにとっては聞き逃せないものだ。口ぶりから紋章を狙う敵とは思えなかったが正体不明には違いない。警戒を強めながらは得体の知れない女性に問いかける。
「あなたは一体、何者なんですか」
「その礼儀正しさに免じて教えてやろう。わらわはシエラ。おんしの同類と言えば分かるか?」
同類。その言葉を聞いた瞬間、少年は静かに目を閉じた。
少女は何もかも見通すかのように笑った。
「童は託す相手を見つけたか」
「親友、です」
「して、おんしの名は。若き継承者」
いく年月を越えて来たのだろうか。彼の親友は三百年を生きたと言っていた。その彼を童呼ばわりしているのだ。少なくとも三百年は生きていることになる。
抗ってはいけない。牙を剥いても意味を成さない。彼女が強いとか、そういうものではない。少年にとって年長者は敬うべき存在であり親友を知っているというならなおさらだった。
「・マクドールです」
「なるほど。天地の戦に巻き込まれたか」
お見通しらしい。名を名乗ればすぐに過日の件に思い至ったのだろう。嘲笑うようだった。を、ではなく天地一〇八の星の集う戦をだ。
稀な邂逅に、しばらくこの場にいることにしたらしい。シエラはの隣に腰掛けた。意図してはいないはずだがいつも少女が座る側ではなく反対側だ。まるでここに座るものが分かっているかのようにシエラはそこを避けた。
「久方ぶりに継承者と会った」
「テッドとは、いつ?」
「あれと最後に会ったのは二十年ほどだな。初めて会ったのは……二百五十年は前であろうな」
口の悪い童だったとシエラは笑った。はなんとなく、彼女に対するテッドの様子を想像できてつられるように笑う。どうせ余計なことでも言って怒りを買ったのだろう。の知るテッドは不用意に人の逆鱗に触れることが多かった。
「あれとはよく会うてな。会うたびに棘の抜ける様はなかなか面白かったぞ」
「棘?」
「……その紋章は人が背負うには大きい。童も大分荒れておった」
の右手に視線をやるシエラはやるせない様子だった。彼女もまた、とは違う業を背負っている。それをは知らないが気持ちの良いものではないはずだ。
テッドはと出会った頃は人懐こい性格ではなかった。の父が引き取ることにしたと連れてきた時はボロボロの気絶した状態だった。起きてからもすぐに出て行くと言い張ったし誰も寄せ付けはしなかった。感謝はしているのだと言うけれどとにかく一人にさせてくれと他人を拒絶していた。
それが、テッドの背負った業の影響だった。が今背負っているものでもある。近づきたくても、近づきたいが故に離れていたい。そう思わずにはいられない業だ。
「あやつがおんしのような、親友を作りそしてそれを託した。……随分と変わったらしい」
「そう、ですね。最初は拒絶されましたけど、よく笑うようになりました。『俺はここに来たかったんだな』って言ってたんです。そのときは大げさだと思いましたけど」
「ああ。童の捜し人はおんしだったのだろう?」
は頷いた。シエラがテッドとどれだけ親しかったかはわからない。けれど彼が支えにしていたというとの約束を話すぐらいには信を置いていたのだ。
不思議な空気だった。テッド、と名を紡ぐたびにの心には痛みと温かさと幸福が蘇る。振り返って捜すほど月日は流れていない。ふとした瞬間に思い出はすぐに浮上する。
ここはクスクスの街の隅であり戦争の最中にある国だというのにまるで故郷の街にいるように感じた。
「シエラさん」
「なんじゃ」
「テッドは、どんな思いで傍にいる人を遠ざけていたんでしょう」
に会うまで辛いことも多かったとテッドは口にした。詳しいことはほとんど語らなかったけれどと同じ悲しみも辛さも経験してきたのだろう。そしてそんな思いを二度とすまいとどれだけの人を拒絶してきたのだろう。には想像できない。
元々人懐こく笑う人に好かれるようなタイプだ。人を恋しく思わないはずがない。それを、どれだけの苦痛だったのだろう。他人を遠ざけいつ終わるとも知れない生を続ける孤独は、如何ほどだったのか。
シエラはの言葉にほう、と目を細めて笑う。
「遠ざけたい者でもおるか」
「少しの間旅を共にするだけだったんですけど、予想外で」
「退きがたいか」
は曖昧に笑う。否定は出来なかった。
この世界に突然放り出されたという少女。はじめに手を取ることをよしとしたのは自身だ。少しの間。そう心に釘を刺した。
この三年近く生まれて初めて一人になった。生まれたときから家族が居た。友人が居た。仲間が居た。彼の周りは常に誰かがいた。笑顔を向けるべき相手が居た。
旅の孤独は慣れていたつもりのを弱らせていたのだろう。彼女との旅は予想以上に楽しかった。それとないの線引きに何を言うこともなく付き合ってくれている。一歩、深いところはが拒絶すれば二度は踏み出さなかった。
少しずつ、隣にいるのが当たり前になりつつある。買い物の計算は二人分。戦いのときは後ろの詠唱のタイミングを見計らう。そんなことがの中で当たり前になってきている。
「突き放せばそれが一番なんです。誰も傷つかない。……まだ、それが出来ずにいます」
「ほんに、難儀な生を背負ったな、小僧」
「……お互い様じゃないですか?」
「それもそうか」
二人はその後お互いの旅の情報を交換し合った。旅人同士での情報交換は有益なものだ。例え今から行く先の情報ではなくとも後々役に立つ可能性がある。
シエラは月の紋章の持ち主であり今は奪われた月の紋章を捜しているということで、情報があれば教えろといわれた。は数年前、シエラから紋章を奪ったネクロードを倒したと言ったのだがタダでは死なんと言い切られてしまった。今もまだ生きているのだと。そうでなければ紋章はシエラの元に戻ってくるとはっきり言い切った。
ネクロードが生きている。それを聞いた瞬間の脳裏に現れたのは大抵のことを笑って受け止める気の良い男だった。
「……報われなかったってことか」
「おんしの仲間のことか? そやつが生きておるなら自然と耳にする。因縁は切っても切れぬ」
長く生きた人間の言葉は重い。が思いを馳せた相手もまたネクロードと対決する日が来るのだろう。そのときはシエラも傍にいるかもしれない。因縁は切れないというのだから。
偶然にも、生死不明だったはずの男の所在をは耳にしている。それこそ因縁だろう。
「シエラさん、新同盟軍にネクロードと因縁のある男が居ます。名はビクトール。何か手がかりがあるかもしれません」
「新同盟軍、か。行ってみるとしよう」
「俺からの紹介ということは内緒にしてください」
家出中なのだと言えばまあ良かろうと頷かれた。
そろそろ宿に戻るとシエラは立ち上がる。もすっと立ち上がりその姿を見送る。
「あの童と違って嗜みはあるようじゃな」
「テッドはまあ、そういうのは気にしない奴ですから」
「……久々に実りある会話だった。なに、少し教えてやろう」
何をだろうか。が首を傾げればシエラはにやりと笑う。その視線はから移り町の中を向いている。
「おんしの連れが奇妙な気を放つ娘ならば、少し安心して良い」
「会ったんですか」
「道を聞いただけじゃ。……あの娘、強い加護がある。紋章も迂闊に近寄らぬ。まだ安心しても良い」
「ありがとう、ございます」
「童への餞別の代わり、とでもしておこうかの」
存外、彼女はテッドのことを気に入っていたのだろう。口ぶりには多々彼への親愛が見えた。
同じ業を背負ったというだけの共通点ではあるがはテッドとの繋がりがあったシエラに好感を覚えた。気兼ねなく、彼について話せるからかもしれない。持つ力は違えど、先達とこんなにもゆっくりと話せたからかもしれない。
出会ったばかりで、本来なら警戒してこんなにも話せなかっただろう。それを結んでくれたのは親友のおかげで、それがにとっては殊更嬉しいことだった。
「シエラさん」
「ん?」
「今度会ったら、テッドの話を聞かせてもらえませんか」
気が向いたらの。
そんな曖昧な言葉だったがは笑顔を向け、立ち去る背中を見えなくなるまで見送り続けた。
(理想と現実の狭間で)