「ねえ、そういう釣り楽しい?」
「考え事したいだけだから。はお好きに釣りをどうぞ」
「……そう」

 クスクスにやって来て一週間。二人はひたすら釣りをしていた。船を出しての釣りは漁師以外禁止されているが岸で釣りをする分には問題ないと聞いたからだ。
 一人はときどき釣り上げて上物であれば売ったしそこそこのものなら自分の夕飯にした。もう一人はただの針を糸の先につけて飽くことなく釣りのポーズだけを楽しんでいた。
 真っ直ぐな針を湖に落としたは反対側の岸を見つめているようでいて、ずっとあることを考えていた。



 事はクスクスに到着する前。新同盟軍本拠地に滞在している頃に遡る。
 そこでが個人的に知り合ったのはルックという稀有な才能を持った魔法使いの少年だ。の旧知の存在という彼はの知るセインと似ていたが彼よりも無口で感情を出さない無愛想な少年である。
 滞在中が付き添っていたこともあったがただ付き添うだけにも飽きたらしく、彼は一人近くの図書館にこもることがあった。が考えていたのはがそうやって図書館に行っているときにルックから聞いた昔話のことだった。

「きみ、よくあいつと旅できてるね」
「それって私が協調性がない女だと言いたいの?」
「……そういうこと言うのって自覚がある証拠だろ。ま、今回はそういう意味じゃないよ」

 多分に棘を含んだ言葉だ。その言葉には早々に慣れてしまった。旅をしていると多種多様の人物と会うものだ。それこそ人間以外の存在と話をする機会もあった。ルック少年の棘のある物言いなど憎たらしさはあれど問題ない範囲だ。
 石版の前には人が寄り付かない。目立つ場所にあるというのに綺麗に線引きされたように人々は避けて通る。がいるからか、普段からそうなのか、ときどきルックに挨拶する人間もいたがルックは全て無視していた。いっそ潔いほどだ。

「じゃあ、どういう意味?」
「あいつが人を傍に置いたことだよ」
「……ああ」

 ルックの言葉には思わずうなずく。
 は人を傍に置きたがらない。ルックの立つ石版の一帯が線引きされているかのようにの心には綺麗に線引きがされてある。その線を越える者がいれば自らその距離を隔てるだろう。程々の付き合いしか求めていないのだ。
 彼の人となりを長くはないがこちらに来てずっと見てきたからすれば不思議なことだった。彼は人を惹きつける魅力がある。それに応える言葉を持っている。人を嫌っているわけでもない。むしろ彼は人と交流するのを楽しんでいる。だけど遠ざかるのだ。深入りを許さない。自身にも、他人にも。
 自身随分彼について足を突っ込んでいる自覚はあった。少なくとも自身は彼の深入りを許容し彼もそれに甘んじている。距離を置かれないことに驚いてはいた。
 へえ、とルックはの言葉に少々の驚きを見せる。わかっていて一緒にいることを意外に思ったのだろう。そうならばのことを随分と能天気な旅人と捉えすぎだ。気楽に旅をしていることには違いないがで考えることもある。

「心当たりはあるわけか」
「もう少し入り込むとはある日忽然といなくなるかな、とは思う。まあそこまで薄情者でもないから観念して祖国にでも帰るよ、なんて言って姿をくらますかな」
「わかってて旅をしてるわけだ」

 ルックは軽く笑う。もちろん純粋な笑みではなく、皮肉げに笑う。滑稽だと、二人の旅を笑っているようだった。
 はその笑いにムッとしてルックを睨みつけたが彼は存外真剣な顔でを見てきた。

「忠告だよ」
「何が」
「あいつに深入りするとろくなことにならない。あんたも、あいつも」

 真っ直ぐと、射抜くような視線だった。エメラルドグリーンが力を持ってを見つめてくる。
 ルックの言うことが何かははわからない。ただ、ふとした瞬間に見せるの陰のある表情や肝心なところで遠ざかる姿勢は何かを恐れているのだろう。深入りが何を意味するのかもルックも知っているのだ。
 ルックという少年が普段他人にお節介を焼く性格ではないのはここ数日だけでも十分に理解している。それでもに忠告する程度にルックはを知り、そして気にしている。

「ルックは、深入りを許された側ってことだ」
「違うね。僕は同じ業を背負わされた側と思われてるだけ」

 その表情は歪んでいる。その裏に隠された感情に誰も気づくことは出来ない。業を背負わされた人間の皮肉な笑みとしか捉えられない。

「同じ業?」
「とにかく、まだ長い期間旅をするっていうなら深入りは禁物って事だよ」
「やけに優しい」
「そういうんじゃない」

 の言葉に否定の声を即座に上げたルックはふと視線をから石板へ移した。石板を見ているようで、おそらく彼は今本当は別のものを見ている。追想だ。の知らぬ場を見ていた。
 石版の周りは賑やかで人々は他愛ないおしゃべりをかわし外では訓練に明け暮れる兵や買い物を楽しむ人々がいる。その中でここだけは静けさを保っていた。
 も石板を同じように見ていたことがある。この石板はこの戦で重要な位置づけにある人々の名前が刻まれるという。おそらく、ルックとの参加した戦争にもこの石板はあったのだろう。彼らは石板に名を刻まれいたに違いない。
 石板から視線を外したルックは何事もないように小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「まだあいつに新しい傷は早いからね」
「意味が分からないんだけど。わかるように喋ってほしいな」
「別に分かる必要はないさ。話は終わりだよ」

 ルックの知る彼は掲げた理想を得るために守りたいと誓ったものを失っていった。彼が守りたいと、続く未来にあって欲しいと思ったもののほとんどが喪われた。届かぬ彼方へ消えた。彼の背負った傷に対してあまりにも無情だった。彼は喪うばかりで得たものはあれど傷跡が多すぎた。大きすぎた。
 数年前の彼は日を追う毎に傷つきボロボロになりそれでもなお背を伸ばし気丈に振舞った。大丈夫だと周りに笑いかけ人々を励まし前へ歩み続けた。痛ましいほどだった。

 だから、彼が小さな絆を得ている今はそれを無下に奪われるのは酷だと思ったのだ。人のことはどうでもいい性質のルックだったが珍しく、お節介を焼いていたわけである。
 それは気まぐれかもしれない。しかし彼は確かに二人の人間の為に動いた。

「忠告、胸に留めておくよ」
「あ、そ」

 気のない返事には微笑み、礼を言った。




「まったく、いつになったら平和になるんだろうな」
「トゥーリバーはこの間英雄の子様がハイランドを撃退したらしいがグリンヒルは陥落したって話だ」
「やってられんなあ。ミューズもサウスウィンドゥもダメ。ティントは離れてるからって日和見だ。都市同盟もあったもんじゃねえ」
「マチルダなんてグリンヒルへ向かう部隊を見逃したってことだろ? ゴルドーは良い噂を聞かんかったが……騎士団も落ちたもんだな」

「俺今度新同盟軍に行くんだ」
「行くって、あの義勇兵の呼びかけか?」
「そうだよ。兄ちゃん、傭兵の砦に居てさ。友だちって人が遺髪を届けてくれたんだ。俺、兄ちゃんの仇を取りたい」
「……そっか」
「俺より年下の様が頑張ってんだぜ? お前は家の方、頑張れ」
「そう、だな。ああ。新同盟軍を支援できるよう親父に掛け合ってみる」


 釣りをしているとたくさんの会話がの耳に入ってきた。そのどれもが戦争に大なり小なり関連している。情勢の話、志願兵の話、安否を気遣う話。
 旅人には関係がないと言えばそれまでだ。通りすがりの国の戦争の話。痛ましい、嘆かわしい話ではある。
 この国か敵対する国か、どちらに正義があるのかとは思わない。戦争など人が戦い死にいく事実だけが残る。勝った国が勝者であり正義だ。歴史は勝者を照らし続ける。

「私より、年下か」

 義勇兵に名乗りを上げると言った声の主をは振り返り見ていた。二十にも届かない少年だ。十七、八の前途ある少年。殺しなど夢にも思わなかっただろう。剣を持ったことはあるかもしれない。しかし人を殺したことなどないだろう。
 義勇兵。名を聞けば通りが良い。ただそれは兵士として敵兵を殺しにいくということだ。戦場で地獄を見るということだ。それを背負って一生生き続けなければならない。
 がふと隣を見ればそこには会話を耳にしていたかもしれない旅の連れがいる。じっと釣竿を握ったまま、動かない。かと思えば突然身体を震わせた。

「アタリだ!」
「これは……大きそうだねえ」
「うん。なかなかの、大物だ」

 命の危険がすぐそばまで近づいている場所で釣り。
 しかし平和な場所で釣りをしていても戦争は存在している。知らないだけで世界のどこかで戦争は起こっていただろう。

「なんとも、なあ」
、手伝って! 重い!」
「男なら一気に釣り上げろ!」
「無理だから助けてって言ってるんだけどな!」

 とりあえず考え事も釣竿も放棄して援護に走った。


(もっと目を世界へ向けて)