人の噂も七十五日、というならば彼女の噂はとうに消え去っているはずだった。しかし噂は消えることなく彼女の存在を塗り替えるように覆いかぶさって久しい。
未婚の貴族女性が幾人もの男性とふしだらな関係にある。そんなことをまことしやかに囁かれた。それだけならまだしも、声を潜めてお相手に皇族もいるのだと貴族特有の婉曲な話まで出回った。
脳裏に遠巻きに囁かれた言葉が蘇る。それは彼女を評した根も葉もないことだ。
しかし多くの人は好奇と暇つぶしの話題としてそれに乗った。身に覚えのない、彼女の立場からすれば相応しくない噂は人から人へと流れて彼女自身の手に負えるものでもなくなった。
どんなことをしても揶揄や侮蔑の視線は絶えることがない。耐えても変わらぬ状況は嫌気がさすには十分だ。
拭えないものならばと、普段なら迎えの車に乗って移動する場所を歩いてみることにした。運転手に適当な理由を言い先に帰してしまう。
成人していると言えど貴族の令嬢としては避けるべき行動だ。
だから彼女は思い立ち行動した。どう振舞っても同じなら望みどおりにしてやろうと。半ば自棄になっていたのだ。
車に乗ることなく歩くなと言われていた通りを歩くことは不安だらけだったが顔には出さない。動揺など見せるのは貴族としてはしたないことだ。優雅にしとやかに、常に美しい所作を求められていた彼女にとって表面を取り繕うことは難しくない。
内心はもちろんそれどころではない。最初の反抗的一歩は彼女の心臓を忙しなくさせている。
噂を否定するのにも疲れ果て、噂通りの振る舞いの一つでもと思い立ったはずだった。実際にらしからぬ行動をしてみれば誰にも声を掛けられないようにと祈っている。
「馬鹿みたいね」
実際彼女が道を歩いていたところで気にする者などいないのだ。嘲笑っていた人々は彼女が歩くこの道を気にかけることはない。事実の有無は重要ではない。その日盛り上がる話題として彼女はちょうどよかった。それだけだった。
道を一つ歩いてみたところで変わることなどないのだ。見咎められる前に車を呼ぼう。そして先日から避けている両親と持ち掛けられている縁談の話をしよう。
そう思った彼女の視界の隅、車に乗っていれば気づきもしなかった路地にその人影はあった。
壁にくたりと横たわる少年を見て彼女は困惑し、思考が言語の形を持つ前に思わず笑っていた。
諦めようとした瞬間見つけたものに彼女の思考は最後の悪あがきとでも言わんばかりにひとつの思い付きを囁きかけてくる。悪魔の囁きとでも言うのだろうか。眩暈を起こしそうになっていたが視線は少年に注がれたままだ。思わず言い訳のように言葉が落ちる。
「さすがに勘当か強制見合いコースかしら」
その少年はどこからどう見てもブリタニアの血など入っていない、イレブンの子どもでしかなかった。
どういう理由かはわからないが殴られたり蹴られたりした形跡があり、服も含めて全体的に薄汚れている。しかし瞳を閉じたままでも整った顔立ちをしているのはわかったし、体つきは少年の年頃にしては鍛えられている。ただの浮浪児ではないのは見て取れた。
首元から覗いてる鎖はオシャレのためのものではない。見覚えのある無骨なチェーンに彼女の足は自然と路地裏に向き、膝を折って少年に近づいた。
服の内側に隠されているであろうタグを引っ張り出せばやはり軍属らしい。タグに名前と所属が刻まれている。
枢木スザク。名誉ブリタニア人になりその地位を得たのだろう。彼女からしてみれば実に奇特な人種だった。
「どうしてこんな世の中でわざわざ茨道を裸足で行くのかしら」
時は皇歴2015年。ゼロという、世界が劇的に変わる兆しはまだ見えず、人々は己に当てはめられた世界に身を浸し、ただただ時を過ごしていた。
今日の『後輩指導』は特に厳しかった。
形跡が残りにくいように露出する部分は避け、訓練や任務の時間以外を狙って行われる『後輩指導』はイレブンであるスザクへの侮蔑と彼らが燻らせている暴力性を解消するためのものだ。
スザクが自力で怪我の手当をできる程度の余地を残し、基地以外で事に当たり、衝動が落ち着いたり時間になればその場に置き去りにする。
この行為は軍の人間も、偶然見かけた民間人も、誰も彼もが見て見ぬ振りだ。全てが日常茶飯事だが気を失うことは初めてだった。
今回は規定の時間に戻れずに上官から叱責を受けるかもしれない。熱を持って痛みを告げる腹部や背面に煩わしさを感じながら意識を手放したはずだった。
「ん……」
「おはよう」
「ここ、は」
固い地面ではないふかふかの感触。聞いたことのない女性の声。
非日常過ぎる感覚が現実だと脳が認識するとその瞬間バネのように起き上がった。異常事態だ。
あらまあと、それを見ていたらしい声の主は軽やかに笑った。
起きた直後に状況の前後を思いだす。冷たいコンクリートに背を預けて起き上がるはずだったがどこからどう見ても上品な部屋の中だ。
緊張した様子で窺えば、彼女はその様子に目を細めて満足そうに頷いた。
「ここは私の家。あなた外で倒れてたから介抱したの」
「ありがとう、ございます。あの、大丈夫ですか?」
大丈夫の何が、ということを彼女は理解したようだったがにこりと笑うだけだ。
イレブンである自分を助けてブリタニア人であるあなたは大丈夫ですか。
君の言うことを私は理解しない。笑顔はそう言っていた。
「タグを見たの。軍に少し伝手があるからあなたがここにいて、自室に帰るのが遅れてもお咎めはないわ」
「申し訳ありません。お手を煩わせてしまいました」
頭を下げる少年を上から下までつぶさに観察する視線は不躾さを隠さないが意識不明の人間を自宅に招き入れたのなら当然だろう。
体の調子は万全ではなく重く気だるい。殴打された部分がじくじくと熱を持っているが手当はされている。服も着替えさせられていた。
下げた頭をゆっくりと上げ、微笑みながら観察を止めない女性をスザクは真っ直ぐ捉えた。
貴族階級の女性というのは表情や雰囲気から見て取れた。顔立ちからも労働の疲労は見えないが陰のある印象で妙にアンバランスだった。
スザクが彼女を見ていた分、当然彼女もスザクを見ていた。特に真正面から瞳をまじまじと窺うので目を逸らしそうになる。不敬にあたることと逸らしてはならないという反射的な気持ちで堪えてみせたけれど。
「いい目ね」
「はい?」
睨み合いとまでは言わない対峙のことであろうか。それ以外にボロボロの身なりの自分に褒められる要素をスザクは思いつかない。
彼女はスザクの疑問には答えてくれないらしい。微笑みは身分の高い人間がよく浮かべる本心を隠すものだ。
「しばらく私と遊んでくれないかしら。内々に通達がいくようにお願いするから」
「え、あの」
少し伝手のあるだけのはずの女性の口から簡単に通達が届くと言われる。それは不自然なことだ。彼女は軍関係者でも何でもないはずなのに。ベッドの上で動揺を隠せないスザクに彼女は微笑む。
その細くなった瞳の奥が今はきらきらと気まぐれに輝いてスザクを捉えたままだ。
「クロヴィス殿下は小鳥を飼っている。聞いたことない?」
「……えっと」
イレブンの名誉市民であっても軍属であれば聞いたことがないわけはない。
クロヴィス殿下にはお気に入りの小鳥がいる。その小鳥は美しい声で殿下の耳を楽しませるのだという。
それがどういう意味なのか、なんて下級の兵士たちには聞くまでもなく、だからといってその下世話な想像の噂話を表立って騒ぐわけにはいかない。噂は密やかに、けれど確実に出回っていき、その小鳥はどこそこの貴族の令嬢だのどこからか殿下が拾ってきた彼の芸術品だの、好きに話され、最近は落ち着いてきた話だった。
「殿下は噂を好きにさせているし、親も娘の道楽に頭が痛かったはずがそういうところが殿下に気に入られているから見て見ぬふり。お互い都合の良い隠れ蓑だったのよ」
それで噂の真偽は、なんてスザクは口にできなかった。きっと尋ねれば彼女は躊躇いもなく答えてくれたのだろうと知るのはもう少し先の話で、今はただ自分の置かれた状況を把握するのに必死だった。
「何故、見ず知らずの自分を助けて、気にかけてくださるんでしょうか」
「気まぐれに戯れに、小鳥は歌うからよ」
少年は望む答えを得られることはなく、その日は問答無用で帰された。
そして翌々日には内密の命だと、訓練以外の時間拾われた女性のマンションへ護衛と話し相手を兼ねて訪れるようにと言い渡された。
「自由にしていいとは言ったけど訓練ばかりで飽きないのかしら?」
「集中して自由に体を動かせるのは団体行動だとなかなかできないことですから。正直ありがたいです」
彼女のわがままで与えられたという部屋は3LDKで一人で暮らすには広々としていた。
彼女は寝室とリビングを主な活動範囲にしていて、もう二つある部屋の一つは衣装部屋、もう一つは空の部屋らしい。曰く、何かあったときのための余白だという。個人の部屋を持たない今のスザクには遠い世界だ。
案内されるリビングでスザクは黙々と体を動かし続けた。彼女はそれをじっと見ていることもあれば呼んでおいて見向きもせず読書に勤しむこともある。スザク一人が増えたところで何の問題もない。
リビングも広さの割に彼女は家具もほとんど置いていないので片隅で人が一人トレーニングをしても邪魔にすらならない。
「スザクは小鳥の鳴き声が聞きたいとか思わないのね」
「歌声の機微を理解できる教養を自分を持ち合わせません」
「枢木家のご子息が?」
「無骨な家ですから」
少年こと枢木スザクの声は途端に陰る。
彼女はそれに微笑むばかりで救いの手を差し伸べることもない。
この家でスザクは彼女の客人であると同時に彼女に逆らえない配下のようなものである。彼女の意に沿わぬことをすればクロヴィスにも伝わることもあり得るのだ。対応は慎重になる。
わかっているだろうに彼女は寛げと無茶を言い、小鳥の囀りを求めないのかと軽薄な誘いをかける。その囀りの意味するところをスザクは測りかねたままだ。
「いじめすぎちゃった。スザク、ごめんなさいね」
お茶にしましょうと歌うように誘われればスザクに断る術はなかった。彼女の望むように在るのが今のスザクに課された任務だ。彼女が望むままに。彼の今の立場では頭の痛い話であった。
彼女の家に呼ばれることは続くこともあれば間が空くこともある。いつでも出迎える彼女は昨日も会ったかのような気安さでスザクに笑いかけた。
「いらっしゃいスザク」
「お邪魔いたします」
堅苦しいともいえる態度でも彼女は気に留めない。むしろ態度を崩していいのだと笑いかけすらする。
イレブンと呼ばれる側からすればブリタニアの貴族から発せられる命令なのか、従わないからと何かを強いられる材料にされるのかわからないものだ。心から思っていたとしても真っ直ぐにスザクに伝わることはなく、彼はあくまでも上官の命令を適切な距離を保ったまま守ることに徹する。
リビングへ案内した彼女は先ほどまで座っていたらしい椅子へ腰かけスザクがトレーニングに借りているスペースに視線を送る。
「今日も好きに過ごしてていいわ」
「いつもそうおっしゃいますがそれではあまりに自分に都合が良すぎます」
「それならそれで利用したらいいのよ」
何度問うても彼女は同じことしか言わない。
「この時間だって永遠ではないのだから。それならスザクの好きなように過ごしたらいいの」
「貴女の利がありません」
「そうね」
彼女が同じことを言ってもスザクも同じように問い返す。埒が明かないと思ったのだろうか。彼女の脇に立ったままのスザクを見てわずかに表情を歪める。
何を言おうかと、彼女は頬に手を当て言葉を選んでいた。
「ささやかな反抗の証なのよ」
「反抗、ですか」
「親孝行な娘の振りが上手だったのよ」
そう口にした彼女は自身が生まれてから大学を卒業するまでの間親の望む貴族の娘らしさをどれだけ体現していたのかを語った。
親の言うことに従い望まれた趣味を続け、人間関係を維持し、異性関係には慎ましく、優秀な成績を収めながらも突出せず和を乱さない品行方正なお嬢様だったという。
語る彼女は軽薄な調子だったがスザクは表情を変えることもなくじっとその声に耳を澄ませていた。彼女の立ち居振る舞いは話す過去と照らし合わせれば納得できるものだし、彼女は一度もスザクに触れたことはない。今は違うと言いたげだが彼女のそれは噂ばかりが独り歩きし実態のない揶揄する体の良い幻影のようだった。
「クロヴィス殿下とは絵画コンクールの授賞式で初めてお話したの」
その声は穏やかで、かつ満たされていた。彼女にとって誉れだったのは聞かずとも明白である。
最優秀ではなかったが初めて出したコンクールでの入賞だった。目立つことは避けていた彼女にとってそれは生まれて初めて表舞台に立つような誇らしさがあったのだ。
クロヴィスは彼女の絵を気に入ったといい、また描いたら見せて欲しいと声をかけた。芸術に造詣の深いクロヴィスからの言葉に彼女はとても心躍ったという。彼が純粋に彼女の絵だけを評価してくれたこと、それがはっきりわかったからだ。
それから時折、クロヴィスの気に入った作家たちを招くお茶会に誘われ絵画の話をした。会話の中で歌も嗜むことを知ったクロヴィスに請われ歌も披露した。
貴族社会と馴染めないけれど、演奏や絵、詩歌や彫刻、様々な創作に通じる面々とのお茶会は権力社会とは縁遠く、国の中枢にいるクロヴィスにとって貴重な憩いの時なのは明白だった。
「殿下は皇族で雲の上の方だけれど、創作は殿下と私たちを細く微かな糸で結んでくれた」
懐かしむ声にスザクは腑に落ちた。出会った彼女に不似合いな噂の数々は彼女の誇らしい出来事が故なのだと。
「……噂は、そこから?」
「ええ。私の両親が殿下との交流を喧伝して、よく思わない貴族から根も葉もない噂を流されたわ。今はお茶会にも滅多に伺えなくなってしまった」
それでもクロヴィスは折に触れて彼女に便りをくれ、彼女も絵を描いては返事をしたためた。
空だと言った部屋は絵を描くための作業部屋なのだと口にする彼女は貴族らしからず感傷的な、弱みになりかねない口調だった。瞬き一つほどの僅かな間だったが取り繕えない程彼女にとっては大切なものなのが窺えた。
品行方正な美しい女性が皇族の覚えもめでたいとあれば嫉妬の数は数えられるものではないだろう。彼女の足を掴み舞台から引きずり落とそうとする力は強く醜く巧みだったに違いない。
陰のある横顔の正体はスザクの表情を歪めるに十分だった。
「私もクロヴィス殿下も同好の士でしかないと本人たちだけははっきりわかりあっているのよ。周りは楽しく騒げるだけ騒ぐの」
「そうした鬱憤の結果が、自分を拾うことですか」
貴族らしく、彼女は美しく微笑んだ。
「最初は誤解されるように言ったけれどね。殿下に軍部の件で何かお力を借りることなんてしたことがないのよ。そんなことをせずとも我が家は軍門の派閥なのだから。知ってるでしょう?」
沈黙が答えだ。
彼女自身は家名をスザクに名乗ることをしていないが噂のこともあるし命令が下った際にも無礼な真似はしないよう上官から厳命されていた。その上官が彼女とは親類縁者にあたることをスザクは任務を受けた際に知った。
「スザク、私のささやかな反抗に付き合ってくれないかしら」
「命令以外のことはいたしかねます」
一瞬息を呑み、けれど努めて事務的な口調を崩さないスザクに彼女はその時確かに笑った。今まで見せていたような穏やかなものではない。自嘲の色が多分に含まれた、罪悪感も持ち合わせた表情だった。
「あなたの上官は私の意向に沿うようにと言ったはずよ」
スザクがここにやって来て初めて、彼女は自ら意図的にスザクに近寄った。
細くて華奢な腕が伸び、触れればなめらかさのわかりそうな指先がスザクの頬に触れる寸前で動きを止める。
「何の為ですか」
スザクの眼差しは彼女を真っ直ぐに射抜く。責めているわけでもない。求められていることに何の感情も見えない。
拒否でも侮蔑でもないただの質問に彼女は肩の力を抜いて笑った。
「お人形ではないという馬鹿馬鹿しい証明の為よ」
「あなたは人間です」
「そうね」
指先が伸びた。ひんやりとした指が頬からスザクの体温を奪い、引き寄せられるようにその手は頬を包む。
スザクが彼女に向けた眼差しのように指先には感情的な動きはない。体温の違いを確かめた後はただ添えているだけだ。
「そう言ってくれる相手を利用する、最低な人間よ」
そう言いながら彼女はスザクが拒否すれば彼女の望んでいる『ささやかな反抗』はすぐに終わるだろう。強く拒絶すればいい。
しかし跳ね除けて強いる程彼女は図太さを持っていない。だからこそささやかなのだ。大事なものに触れるように指を滑らせる。価値がないもののように粗雑にスザクを踏みつけ転がす人間とは違う。
最低なことをするには彼女は優しすぎるだろう。スザクをモノと同じように扱えるようでなければこの世界では生きづらい。
「あなたが望むなら、お付き合いします」
彼女の望む方向で答えたはずなのに困ったように微笑まれる。
つられてスザクも表情を崩してしまう。
「自分に選択肢を与えてくれる人に、あの噂は不似合いです」
「そう言ってくれるのは殿下と、あなたで二人目ね」
滑らかな指を這わせたまま、彼女は初めと変わらず真っ直ぐにスザクの瞳を捉える。あの日よりもうんと近いその瞳には意思の光が見える。
瞳に意識を奪われるまま、やわらかな感触がかさついた唇に触れるのを感じた。
注意深い動きで、離れてもすぐに触れ合いそうな近さだ。吐息が離れたはずの唇にかかる。
「キスは目を閉じておくものではないの?」
「多分、そうだと思います」
「多分?」
「初めてなのでよくわからないんです」
彼女の瞳が大きく見開かれる。今度はスザクから困ったように笑い、彼女がつられて笑う。
「困ったわ。私もよく知らないのよ」
「申し訳ありません」
じゃあ今度は目を閉じてと、言われるままにスザクは目を閉じる。
僅かに離れていただけの唇が再び触れ合う。先ほどよりも長く、でもそれだけだ。
添えていた手も離れ、スザクも閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。
「噂通りに振る舞うのって大変なのね」
最初から今の今まで、一度だって噂のようなことはなかった。彼女は真面目で不器用で貴族らしくなかった。それだけのことだ。
「噂のように、振舞いますか?」
今度はスザクが手を彼女に伸ばし、頬に触れる寸前で動きを止めた。
引き返すのなら今だろう。きっと彼女はもうこの部屋へスザクを呼ぶことはない。全て、スザクの思う通りにはいかない。
先ほどまでスザクの頬を撫でた手がスザクの手に触れる。ひんやりとした指先と違って頬は温かかった。
「ブリタニアで生き残りたいのならもう少しずる賢く生きないとだめよ」
「肝に銘じます」
神妙に頷くスザクを見、彼女は出会ってから初めて声を上げて笑っていた。
偶然拾った少年とは噂話の真相を話した日以降会うことを止めた。
彼を呼び出すと決めた翌日には両親からの縁談の話を受け、彼と会った最後の日は縁談の相手と会う前日だった。
「懐かしいわ」
「どうかしたの?」
声を掛けられた相手に彼女は美しい微笑みを見せる。両親や軍閥としての繋がりを強固にするためにと選ばれた相手は存外悪い人間ではなかった。
だからといって過去の噂に関連する思い出を披露することはもちろんない。
「友人からの手紙で懐かしい話が書いてあったのよ」
手紙の送り主は少々変わり者の友人だ。彼女の噂を一つも気にしたことのない相手であり、実利主義の考えが強い人間だった。
エリア11の中で使えそうな軍人はいなかったかと聞かれた際に脳裏によぎった少年の名を挙げたのだが大層喜ばしい結果だったらしい。推薦人のことは内密にする約束だったが踊るような文字はどれだけ覚えていてくれるか怪しい。最高のパーツだと綴られた文字から肉声が聞こえてきそうなほどである。
問いかけに答えてもすぐに手紙に目を落とす姿に相手は苦笑いを浮かべているがこの程度は許容されると彼女は知っている。
「楽しそうで何よりだよ」
「ええ」
まだ少年の面影の強かった彼は今はどうなっているのだろうか。少なくとも特派のお眼鏡に叶う程の能力はあるのだろう。それは身分社会のブリタニアでいくらか力になる。
見終わった手紙を丁寧に封筒に入れる。自室に戻って手紙を仕舞った後、彼女は手を自らの頬に添えた。ひんやりとした指先が頬の体温を奪っていく。
「お互い、何とか生き残りましょうね」
相手に届くはずのない言葉だったが彼女は懐かしそうに笑い、頬から手を離す。
そうして手紙のことなどなかったかのように悠然と部屋を出ていった。
title:まほら