マスター=ヒロイン

 時折、夜は彼女にとっては怖いものだった。

 その時、休息を与えてくれるはずのその時間は人類最後のマスターとなった彼女を悪夢へ誘うものへと変貌する。
 常に健康状態をチェックされているがその悪夢は今すぐ対処するほどのものではなく、彼女の現状を考えれば想定の範囲内の不安定さだった。ひどくなれば何らかの薬を投薬する必要もあるかもしれないがまだそういった域にはなく、適宜様子を見る段階と結論が出た。
 だがその判断は数値上の話であり、彼女本人にとってそれは見たくはないものだった。

 夜更け、彼女の目は冴え、どうにも目を閉じる気にもなれず、あたたかなベッドの中から抜け出した。
 夜のカルデア内を歩き出した彼女は悲しいかな、居住区内だけ、と無意識にその行先を制限していた。居住区を出れば交代で働いている人の邪魔をしかねない。目的地はないが夜中に起きているのを知られて余計な心配をかけたくはない。その心情が足取りに現れていた。
 部屋に戻るのも気が進まず、かといって廊下を歩き続けるのも限りがある。彼女の足は共有スペースである小さな休憩室に向かっていた。
 以前は多くの人間がいたこの場所には居住区域内にいくつかの共有スペースが設けられ、飲み物を飲んだり、談話をするのに用いられていた。今ももちろん使われてはいるものの以前と比べればその頻度は格段に落ちている。
 カルデアは、今や顔と名前を覚えられるぐらいの人数で奇跡的にも稼働を続けている。
 レイシフト先での滞在と部屋での休息の繰り返しである彼女はこの共有スペースを使うことはあまりないのだがその場所を知らないわけではなかった。
 ただ思い立って入ったその場所にまさかこんな時間だというのに人がいるとは思わなかっただけだ。

「え、ちゃん?」

 どうしたんだい、こんな夜更けに。
 やわらかな声が響いてきた瞬間、彼女は苦い顔をした。
 目の前にいる医療チームの筆頭は現在のカルデア内での指揮系統を任されている男だったからだ。

「ドクターこそ、どうしてこんな夜更けに、こんな場所に」

 共有スペースにもその広さに大小あり、二人がいる場所はその中でも小さな場所だった。今は居住区域の中でも外れに当たる。
 ちょっと気分転換に、とへらりと笑うロマニの目の下は隈がしっかり刻み込まれていてこの連日の無茶が容易にわかる。
 ほぼ寝ていない生活をしているのはカルデア内の人間も承知の上だがそれは誰もかれもが同じだった。十分な睡眠は滅多に訪れず、特異点の探索にレイシフトの維持にこのカルデアの存在維持に、やることは山のようにあるが人員は減ることはあれど増えることはない。

「部屋に戻って寝た方が良いと思いますよ、ひどい顔」
ちゃんこそ、あんまり顔色が良くないよ」

 立ちっぱなしもなんだろう。ロマニは優しく微笑んで彼女に席を勧めた。
 そして彼女はそれに従う。断る理由もなければ、こんな夜に一人でいる理由もまたなかった。
 席を勧めた彼の隣に少し距離を取って腰を落とせば彼は代わりに立ちあがり、機械の前に立って何かを操作してカップに飲み物を二つ抱えて戻ってきた。その座り直した位置は先ほどよりもほんの少し近く、そして近すぎない絶妙な位置だった。

「ココア、あったかくて美味しいよ」
「ありがとう、ございます」

 夜更けにココア、そしてロマニ・アーキマン。
 眠れないのためにと選んだだろう飲み物に肩の力を抜く。受け取ったカップに口をつければ胃にあたたかくて甘い感覚が訪れる。手に熱が移り、自分の手が冷たかったことを知った。

「夜はあたたかい飲み物が一番だね」

 のんびりと口にして彼もまた同じようにココアを飲んでいる。
 この人理修復の日々が始まってもう幾月かを経たが彼女はこんな風にロマニと時間を過ごすのは初めてだということに気が付いた。
 いつもはマシュがいて、ダ・ヴィンチちゃんがいて、特異点の話をしたり、今後の展開について話し合ったりすることがほとんどで、改めて二人で偶然顔を合わせることはなかった。診察の時も必要なことを話し、よく休むようにと締めくくられていた。

ちゃんとこんな風に話すのは初めてだね」
「そう、ですね」

 だから彼女は少し驚いている。彼のやわらかな雰囲気に、この夜の静けさに溶け込んでしまいそうな笑顔に、何を口にするか分からない落ち着いた声に、普段のドクターロマンとは少し違うその姿に。
 彼女の視線はじわりと熱を伝えてくるカップに向かい、カップを包む手に向かう。じっと、視線は注がれたまま。

「眠るとこわい夢をみるかい?」

 体が一瞬強張る。その答えにロマニはそう、と落ち着いて予想していたように頷いた。

「ボクもさ、元々夢なんて見ない性質だったのに、この数年は夢を見るようになってね。それもこわい夢の方が多い」

 ロマニはの返事を期待しないのか、と同じように手元のカップに視線を落とし、ぽつりぽつりと語っていく。

「それでも眠らなければ体力は回復しないし、でも目を閉じればまた恐ろしい夢を見てしまう気がする」
「……」
「幾晩か徹夜してみてね、死にかけて夢も見ないぐらいに寝たけれどもう懲りた」
「今は、こわい夢を見たときどうしてるんですか」

 が手元から目を離し、隣に座るロマニを見つめて問えば、それに応えるように彼も視線を上げた。
 いつもは場を過度に緊張させないようにと時折わざとらしく茶化して見せたりもする気遣いしいの彼は今はほんの少し息をひそめているかのようだ。その瞳は落ち着いていて、微笑んではいないのにを受け入れていると思わせるその表情はどこか危うい。
 吹雪に覆われ、人理の焼却された世界ではここから出ることすら叶わない。
 それはにとってはみた夢から逃れられないことと似ているようにさえ思えた。

「ボクは……悪い夢を見た次の日は明日のことを考えながら寝るようにしてるよ」
「明日の、こと」
「ああ。明日何をしようかなって、楽しみを作って。今夜ならそうだな、マギ☆マリの更新を確認しようとか」

 明日の食事のおやつは何かな、とか、部屋で育てているサボテンは明日の調子はどうかな、合間に読んでる本を明日はどこまで読めそうかな、など、ぽつりぽつりと口にされるのは他愛ないといえばそれまでの、ごく当たり前の明日の話だったけれど、もロマニも、それがどれだけ望まれている当たり前なのかを知っている。
 適切な温度に保たれた休憩室はこの外がどれだけの吹雪に見舞われようと、人類すべてがその命を絶やしていようと、まるで別の世界のように存在している。もうすべてが遅いと言われても、それでもまだはここにいた。明日を望む人はここにまだ確かに残っている。

「それか……そうだな、ちゃん、手を貸してくれるかい?」
「は、はい」

 ロマニの差し出された右手には左手を重ねる。
 その手はそっと彼女の手を握る。本当に、触れるぐらいに弱弱しい力で、それでもその温もりは確かに彼女に伝わった。

「人の手がね、ボクは好きだよ。触れていると生きてるって気がして、少し安心するよ」

 ロマニは頼りなさげにへらりと微笑んで、彼女もそれに釣られてほんの少し笑う。強張った、ぎこちない笑顔だったがロマニはことさらにゆっくりと笑みを深めた。
 特異点を旅をし、様々な英雄と、その時代の人々に触れてロマニの言うそれをは強く思うのだ。人と出会うことで人は生きていることを改めて理解する。その人となりを見ることで視界が一つ、開けていく。そしてこうして触れることでその体温が自分と変わらないことを知る。
 目の前の相手が今ここにいて、明日の話をしている。まだ見えぬ、不確定な来てほしい未来を信じている。同じように眠れぬ夜を過ごすことがあっても今目指している場所は同じだと、その手の温もりはに伝えている。

「ドクター、ありがとう。私も、少し安心します」
「こちらこそ、ありがとう。ボクの明日は君たちのことでもあるからね」

 よりも大きな手のひらは温かくてもどこか震えているような気もして、はその手を思い切り握りしめた。

「うわ?!」
「私とマシュとダ・ヴィンチちゃんと、カルデアのみんなと、サーヴァントと、一緒に明日を迎えましょう」

 そうするとロマニはきょとんとしてカルデアのマスターを見つめて、それからくしゃりと笑った。

「うん。励ましてたはずなのにどうして励まされてるんだろう? 本当に、ボクはダメだな」
「そんなの、みんな知ってますから、少しぐらいダメでいいですよ」
「ほら、そうやって君はボクを甘やかす」

 握り返してくれた手の力はそれでもやはりの力には及ばず、は苦笑いを浮かべてしまったけれどロマニも同じように笑っていた。
 万全の状態とは程遠く、生き残ってしまった強運の持ち主たちは今日も明日を信じて生きるのだ。誰よりと背負うものが大きなこの小さな体に、願い、託して。

「今夜はきっと、良い夢が見られます」

 願いは二人の耳に届き、眠れぬ夜はほんの少し、目を閉じるのが怖くない、そんな夜になりそうだった。



(ロマニ・アーキマンと夜)