あの夜飲んだ、胸をあたたかにした飲み物の味を、私はいつまで覚えていられるだろうか。それが今、一番心配でならない。


 人理修復を終え、平和になったカルデアには生き残った人々と、奇特なサーヴァントが少しばかり、未だ残っている。
 英霊の殆どは座に帰り、常に慌ただしく動き回っていたカルデアは今は嘘のように静まり、夜は必要最低限の職員だけが職務にあたるだけで人の気配はほとんどない。
 ただそれはつかの間のことで、おそらくはこの後ここは後処理という意味では今までと違う戦いが始まることに違いはない。それを加味してかどうかはわからないが未だに残ったサーヴァントは今までと変わらぬ調子で昼夜問わず騒ぎにならない程度に好きにし、スタッフは少しだけ増えたような気がする睡眠を甘受していた。
 そんな真夜中のカルデア内の廊下をそうっと歩き、あるドアの前で立ち止まった人がいる。
 人の気配を感知したドアはすっと開き、薄暗いはずの室内がほんの少し照明がつけられていることにその人は少し驚き足を止めた。

「どうしたマスター、こんな夜中に。空腹で目が覚めたかな」

 その声は夜更かしを咎めることなく、そして答えを強要するでもなく、食堂の奥から聞こえてきた。
 彼女はその声の適度な距離と内容に緊張を解き、一歩中に踏み入り笑って相手の名を呼んだ。

「エミヤ」
「私のようなサーヴァントには昼夜はおろか睡眠も些事だが君にとってはそうではないだろうに」

 それでも早く寝るようにとは言わないし彼女のもとへ寄ろうともしない彼はその場所、厨房から動かない。
 サーヴァントの中でもかなり頻繁に厨房を利用していた筆頭は未だに時折厨房に立ってはその腕前を披露してくれる。今夜も何やらしていたらしい。
 彼女は厨房に近いテーブル席に腰を掛け、手にしていたものをそっと置いた。
 彼女はそっとエミヤの様子を窺ってみたものの彼は彼女に視線を向けることなく淡々と作業をしている。それを見て、彼女は自分が先程まで手にしていたものをしばらく見つめていた。
 厨房からは水音や何かが刻まれる音がして、沈黙ではあったが無音ではなく、彼女はその空間にじっと息を潜めていた。

「……味噌の匂いがする」
「味噌汁を作っていたからな」

 視線を上げた彼女の方をいつの間にかエミヤは見ていた。

「ふと飲みたくなって作っていたのだがちょうどいい。一緒に夜食にしようか、マスター」

 そうしてエミヤは彼のマスターの答えを聞くことなく、テキパキと椀と箸を二人分、用意してみせた。
 カルデアは元々万が一の時のために食糧の備蓄もあったし多少の自家栽培もあった。だが本職の料理人を構えているわけではないため食事の内容はパターン化していたそんな最中、大豆と、物好きが仕入れていた麹を見つけたエミヤの手により味噌が出来上がった。
 初めてカルデアでエミヤの味噌汁を食べたとき、彼女は大袈裟と笑われたがエミヤに涙ながらにお礼を言った。まさかご飯に味噌汁で食事ができるとは思わなかったのだ。
 さらに今夜はおにぎりがひとつ。塩むすびだった。米の備蓄があったことはにとっての幸運だった。

「エミヤはいいお母さんになれるね」
「母にはなれないしそもそも私はアーチャークラスなんだが」

 そう言いながらも彼は笑いながら彼女が食べる姿を待っていた。

「いただきます」
「ああ」

 エミヤの作る料理はどんなものも美味しかった。
 目の前のおにぎりも程よい塩加減で、味噌汁は彼女の胃をほかほかとあたためた。それは体に伝わり、心にも伝わる。
 それは彼の作る料理が慣れ親しんだ日本の味がしたからかもしれないが、彼の料理は食べるのが楽しい味がした。
 それに、忙しくない限りはエミヤは自分が食事を作った日、彼女の食事の時に顔を見せに来てくれた。それに気がついてからはほんの少し、戦闘のときに指示を出しやすくなった。エミヤと呼びかければ彼はいつだって何かしらで返事をくれた。

「美味しい」
「……泣くほど美味しいかな」
「……泣くほど、美味しいみたい」

 泣き出した自身に彼女は驚いた様子で、エミヤの方がかえって落ち着いてその様子を見ている。椀を持ったまま彼女を見つめる姿は少し間が抜けているけれど。
 味噌汁が似合う弓兵は自身の味噌汁に及第点を出したらしい。それをテーブルに置くとなんてことはないように口を開いた。

「で、本当に飲みたかったのはなんだったんだ?」
「……」

 涙は一度流れたら止まることを知らぬように彼女の頬を濡らしていたが当の本人は味噌汁に入ってはならぬという気力だけで椀から離して後はただ拭うこともせずにいた。
 その視線はまっすぐに、一点を見つめている。
 エミヤが尋ねもせず、脇に置かれたままになっていたのはからっぽのマグカップだった。
 エミヤはそれに飲み物をいれようかとは尋ねなかったし彼女もそれを頼まなかった。マグカップは静かに佇んでいたけれど、だからこそそこにあることが目についた。何も入っていない、入れることのできないマグカップは彼女にとって夜中大事に抱えて来るようなものだということだけは確かだった。
 深呼吸と、息を呑む音、それから深呼吸。

「……こわい夢を見て眠れない夜、共有スペースでいれたココアを飲めば、ほんの少し眠るのがこわくなくなってた」

 そこは居住区の隅の方にある広くはない小さな休憩スペースだった。
 飲み物はあたためるかインスタントを溶かすことぐらいしかできない。

「あの時飲んだココアは美味しくて、胸がほかほかして、私はあの夜を忘れなければ明日を目指して歩けるって、そう思ってた」

 なんてことはない、誰でも淹れられるはずのインスタントのココア。

「でも、私が自分で用意してもあのココアは飲めないんだ」

 あの場所で飲むことが、あの場所にいる人と飲むことが、胸のあたたかさを、美味しいと感じた心を作っていたのだと彼女は知っていた。
 今夜作ってくれたエミヤの味噌汁のように。握ってくれたおにぎりのように。
 エミヤは目を伏せながら痛みに耐えるように言葉を重ねる彼女を待っている。
 世界の希望は一人だけというあの閉ざされた世界での旅は彼女にとって希望と恐怖と勇気の旅であり、エミヤにとってもまた彼の特別な旅の一つでもあった。
 彼女は世界の希望でもあり、誰かの希望でもあり、エミヤの希望でもあった。
 彼女はエミヤが救いたい世界のただ一人の存在だった。みんなが彼女の味方だった。
 それがどれだけ普通の少女の普通らしさを奪うことか、心の片隅で理解しながらそれでも誰もそれを声高に叫ぶことなどしなかった。

「私の記憶はあの夜をいつまで覚えていてくれるのか、もう私の中で思い出として美化してしまってるんじゃないかって、あの時のあの人の表情も、もう確かなものだと思えなくなって」

 明日が来たのに、眠るのが怖いんだよ。
 世界を救った人類最後のマスターは、その小さな体を息を潜めてどこかからか隠れようとしている。
 世界の明日の後、歓声と喜びに世界は包まれたはずだった。それは確かにその通りで、そして同時に当たり前のこの一年強の日々の終わりだった。いて当たり前の人の不在だった。呼べば応えてくれた頼もしい英雄たちとの別れだった。
 望んでいた明日はやってきた。ただ一人世界を救える者になってしまったただの少女はようやく世界を救ったただの少女に戻れるはずだった。
 それなのに彼女は真夜中に彷徨い、明日を未だに望めない。
 エミヤはうつむき出したその頭上へ優しい声を落とす。

「その日の記憶が擦り切れるぐらい遠くになり、もし忘れたとしてもその記憶を脅かすものなんて自分以外はいない。それは君だけの記憶だ」
「……忘れてしまうのに?」

 人間の記憶は儚い。悲しいことを遠くに感じるように、嬉しいことも、大切なことも、ひとしく遠くなっていく。
 それは決して近づかない。遠く淡く、確かにそこにあることを覚えていてもその時の鮮明さはもう届かない。

「忘れることは悪ではないさ。……それでも、大切に思うことを忘れたくないと思い続けるのも人の性だと私は思うがね」

 かつて人だった相手を彼女は見つめた。
 それから、まだほんのりあたたかい味噌汁を飲み干した。おにぎりの残りも黙って味わった。
 これもまた、きっと彼女の中で忘れたくなくても遠くなる記憶の瞬間だったから。

「美味しい」
「ああ。そう言われると嬉しいな……マスター」
「なに、エミヤ」
「いつか私が還った時、私のことを思い出すも忘れるも君の自由だ。君は君の思うままでいい」

 だが、とエミヤは言葉を止める。彼にしては珍しく、逡巡し、彼を待つどこにでもいたしどこにでもいる少女の待つ視線に苦笑いを浮かべながら、願った。

「残酷にももし叶うならば君にオレのことをいつか思い出してもらえたら、今ここにいる存在が確かに救われる」

 告げられたその瞳は大きく見開かれ、その瞳はみるみるうちに潤んでいき、エミヤはそれでもいつもよりやわらかく笑う。

「けれどこの願いを聞くかどうかも君の自由だし皆が皆そう思っているかを私は断定は出来ないがね」
「ひどい」
「稀有な我がマスターにはできれば笑っていてほしい。このカルデアに召喚されたサーヴァント、マスターを支えていたスタッフはそう願い、そして君との思い出に残り、出来ればその身を支える記憶の盾になりたいだけさ。伸ばす手を持たずとも、伸ばした手がいつかの君を気付かぬうちに支えられるのなら、それは君を守る優しき盾と並ぶ誇らしさに違いない」

 こわい夢を見るのを恐れた夜もある。
 明日が来るのを怯えた日もある。
 隣の仲間が無事でいられるのか不安に震えた日も数え切れない。
 未来が明るく変わる瞬間に胸が震えた日がある。
 サーヴァントたちの力強い背中を頼もしく見た日がある。
 別の時代の会えるはずのなかった人々の輝く瞳に勇気づけられた日がある。
 自分を呼んでくれる声のあたたかさに背筋が伸びた日がある。
 初めてカルデアに来た日、雪に覆われたこの施設は彼女にとって未知の塊だった。
 今、彼女にとってこのカルデアは、大事な記憶が山ほど詰まった大切な場所だった。
 名を呼ばれる。

「マスター、私はいつでも君の心が君のままであることを願おう」

 生真面目で心配性で帰るに帰れなかった優しいサーヴァントに、は滲んだ視界で笑って応えた。
 眠れない夜はもうすぐ空が白み、ゆっくりと世界を照らそうとしている。



(エミヤと夜食)