旅の出発までまだ一ヶ月ほど時間がある。シーモアは基本的にはグアドサラムで族長として仕事をしているんだけど最近はエボンの偉い老師というものになって就任式やらなにやらでエボンの総本山があるベベルとここを行ったりきたりしている。
 エボンというのはこの世界に一つしかない宗教みたいなものだ。何かに感謝するときは手を円のように動かしたりなんだりしてエボンの賜物と感謝する。宗教というものに無頓着な私は決まりごとと言われたらはいはいと従ってしまう。流されているだけだけど今回は良い方向に働いた。

「シーモア、疲れてるね」
「あまり疲れていませんよ」
「嘘だね。普段なら食後にこんなにゆったりソファに座り込んだりしない」

 普段ならさっと立ち上がって自室に戻るか深く腰掛けることはなく私とおしゃべりする。けど今日は息を吐いて深く腰掛けて長い間目を閉じていた。疲れてるに決まってる。
 その証拠に苦笑い。普段は苦笑いなんて浮かべない。

「少し、お願いを聞いてもらえませんか」
「なあに?」

 弱っているんだろうか。完全無敵に見える大人なシーモアが。少し、わがままを見せてくれている。多分、滅多にないことだ。一年に一回あるかないか、そんなものじゃないだろうか。
 ドキドキしながらシーモアの言葉を待つ。よっぽどのことじゃない限り私はあなたのわがまま聞くよ。お礼の足しにもならないかもしれないけど、さ。

「隣で祈りの歌を、歌ってもらえませんか」
「…えーと、この前教えてもらったやつ?」
「ええ」

 シーモアの低い声が奏でる歌に思わずドキっとしていたんだけどそれは内緒だ。しかも上手いから聞き惚れていたってことも内緒だ。まあそのときに覚えた歌というのはわかる。歌える。一般常識らしいことはだいたい覚えていったのだから。
 少し離れていた椅子に座っていたんだけどソファの、シーモアの隣に座る。二人分の重みでやわらかいソファが更に沈んだ。

 いえ ゆい
 のぼ めの
 れん みり
 よじゅよご

 はさ
 てか
 なえ
 くた
  ま
  え

 こんな意味を持っていることを歌詞を覚えようとひらがなで書いていたら発見した。
 祈れよ、果てなく、えぼんじゅ、栄えたまえ、夢見よ、祈り子
 順番はよく分からないけどとりあえずずっと祈って、えぼんじゅが栄えて、祈り子は夢見ていてってことだろうか。なんだ、これ。えぼんじゅってなんだ。
 分からないけど、目を閉じて私の歌を聞くシーモアのために何回も歌う。繰り返し、繰り返し。

「あなたは、わたしの母と少し似ていて、懐かしいと思ったんです」

 歌い終わってすぐ、小さい声で彼は言った。
 それはきっとシーモアが私を助けた理由だ。私は、シーモアのお母さんに似ていたんだ。どう似ているのかは知らない。でも声も似ていたのかな。歌って欲しいとお願いするぐらいだから。
 お世話になったことは心から感謝している。だからシーモアのお母さんと似ていることに感謝しなければならないのかもしれない。だけど、少しだけ淋しい。気がする。だって私はいらないことになる。シーモアのお母さんに似ていれば良いのだから。
 仕様もないわがままを抱いて無理矢理胸の中に閉じ込めた。

「でも、母とは違いましたね。あなたは母ではない。ただ生きることに必死な少女です」
「…力のない、ただの人間だよ」
「いいえ。あなたともう少し早く出会えたなら、わたしはもう少し違う生き方をしたんでしょう」

 もう後戻りが出来ないと言われたみたいでおそろしかった。
 おそろしくて、私は思わずシーモアの手を両手で掴んだ。ぎゅっと。

「遅いことなんて何もない。シーモアは生きているんだから、今からやっても何一つ遅いことはないんだよ」
「…あなたは、わたしが触れるには白すぎる」
「じゃあシーモアの触れられる色になるよ。だから、諦めないで」

 でも、私のちっぽけな力じゃシーモアが今いる場所から引っ張ってあげられない気がした。なんて無力なんだろう。
 シーモア、私はきみの力になりたいのに何も出来ないんだね。

「私に、もっと力があればよかったのになあ」
「その手に強大な力なんて似合わないからよしなさい。あなたの手は誰かを傷つけるためよりも守るためよりも救う手の方が似合う」

 ああ、私が旅の僧官に習ったことはそうだ。救うために私は私に出来ることをしたいと思ったんだった。私が大切だと思う人を救う力を、持ちたいんだ。
 私が傷つけたくないという自分勝手な思いもある。でも、それ以上に私は救いたい。手を取って欲しいと願うなら手を取るし抱きしめて欲しいなら抱きしめる。癒して欲しいなら癒す。
 私は私に出来ることを精一杯、大切な人にしたい。させて欲しい。

「今の私がシーモアに出来ることは何かある?」

 静かなグアドの族長の家は淋しい。それを持ち主が望んでいるからかもしれないけど、ここは冷たい。静かに終わりを迎えようとする人のような空気だ。
 シーモアは私の手を握り返して、微笑んだ。

「わたしが眠るまで、手を握っていてください」
「…それだけ?」
「ええ。十分です」

 繋いだときから私よりも冷たいままのその手に少しでも私の無駄にあるあたたかさが伝われば良い。
 そう思いながら私はシーモアの手を握り続け、そのうち二人で肩を寄せ合ったままソファで眠ってしまった。

(そばにいて)