初めて出会った日、彼女も彼も完璧な愛想笑いを浮かべていた。
そして相手も同じように完璧な笑みを浮かべているのに気がついたその時、二人は初めて世界で一番自分に近い相手を見つけた。衝撃的な瞬間だった。
自分と同じ目をして、自分と同じ笑い方をして、そして自分に向かってきている。自分を見たような気持ちだった。
二人にとって相手は自分に最も近い生き物であり、そして自分から最も遠い生き物でもあった。
二人とも人を信じることを嫌っていた。世界なんてどうでも良いと思っていた。この世の仕組みを嘲笑っていた。
けれど一人は人を愛して生きることを知ることが出来た。もう一人を置いて、愛を知ってしまった。もう一人は世界を憎んだまま、歪んだ感情を抱いていた。それはある種の愛ではあるけれど完全に性質の異なる愛だった。
二人は、最も近しい存在でありそして同時に最も遠い存在でもあった。
*
「シーモア、ご機嫌いかがかな?」
「とても良い気分です。なにしろ寺院に来て早々あなたに出会えましたから」
「お上手なことだ。召喚士ユウナとの結婚当日なのに悠々とした態度でもあることで」
それは夜明けを過ぎて少しした時間のことだった。
明るい結婚式の知らせに希望を見出したとはいえベベルの街はいまだ静まり返っている。
寺院だって例外ではない。奥では起床時間を迎えようとしているからそろそろ騒がしくなる頃だが表にまではそれは届かない。
は目の前で悠然と微笑むこの男の首を絞め殺したいと本気で思った。今朝のこの早起きがこのままでは無駄になってしまう。
この男について召喚士ユウナに会って話すつもりが面倒なことになったものである。は内心嘆息する。
嫌味に対しても平然と答えられたのだ。殺意を覚えても仕方がない。それに最近は嫌なことが多すぎるのも原因の一つだ。
「あなたはいつでも美しい、」
「愛する妻を失いたくないならその口を閉じなさい、老師シーモア」
「おや、今朝の乙女はご機嫌斜めらしい。早々に退散することにしましょうか」
は目の前を平然と通り過ぎていくこの憎らしい男を本気で殺してやろうと何度思ったか知れない。そしてそう思った度に目では何度も射殺してやっているのに実行できずにいた。
出来るわけがなかった。そんなことをしたらは一生分の涙を彼のために使うに決まっている。それを彼女は知っている。わかっている。愛と憎しみは同時に存在し得ることをはできるならば一生知りたくなかった。
「シーモア」
通り過ぎる彼に対して呼びかける。そうすれば必ず振り返って、微笑んで、はいなんでしょうと彼は言う。が知っている彼はそう反応する。
それが今日という日を限りに変わってしまうかもしれないことが恐ろしかった。それが何よりもが恐れていたことだ。彼はいつだって誰にだってそう反応するだろうから変わるはずはないのにそれを恐れている。
「はい、なんでしょうか」
こうして優しく微笑んで、彼女を殺していく。何度も。何度も。
「召喚士ユウナと二人きりで会いたい。お願いできるかな? エボンの乙女として彼女に言いたいことがある」
「ええ、仰せのままに」
その笑みが既に遠くにいってしまったことをは分かっていたけれど知らない振りをした。そしてありがとうとそっけない態度で礼を言う。いつもの通り。何もない振りをして、今まで通り、お互いにわかりきったことを演じていく。
*
召喚士ユウナは寺院の中でも最も最奥に位置する部分の一室にいた。
軟禁状態に等しいというのに彼女は凛とした空気を崩すことはない。背筋を伸ばしてじっと座っていた。
その顔が青ざめていることも唇をかみ締めていることも体が強張っていることも、はすべてわかっていたけれどそれでも彼女は美しいと思った。
「侍従もすべて部屋の外で待っていなさい。この部屋には私と召喚士ユウナだけで構いません。……余計な詮索は身を滅ぼすと思え、シーモア」
「ええ、わかりました。それでは失礼します」
案内を買って出たシーモアは当然のようにここまでついてきた。花嫁の心配を花婿がするのは本来ならば当然だが今回に限っては付け足したような理由にしか聞こえなかった。
彼は心配しているのではなくのことを注意深く見張っていたいだけなのだから。
それでも彼はが強く言えばその意志を尊重する。
侍従が出て行き最後にシーモアが出て行く。
パタンという音の後、部屋には二人だけ。
「貴女は?」
口を開いたのはユウナだった。その声は若干震えているようにも思えたが冷静ではあった。突然やって来た女を訝しむ程度の冷静さはあるようだ。
はそこでユウナに向かって微笑んだ。それは愛想笑いではなくユウナの緊張をほぐしてくれるような優しいものだった。
「。エボンの乙女と呼ばれる者」
「貴女が、乙女?」
は頷く。
エボンの乙女は召喚士たちにとって至高の存在と言って良い。手の届かない憧れの存在だった。
ベベル寺院に身を置きベベルに立ち寄る召喚士たちに激励の言葉を送ってくれる女神。
彼女は召喚士の憧れでありベベルの守り手でもある。エボンの総本山である寺院にいる召喚士の総括役であり優秀な召喚士としてベベルを守っているのだ。
その役に相応しい者が出なければ空位のままである乙女の地位は老師と匹敵する。場合によれば総老師以外が従うしかない場合もある。
そう言われているけれどこれが巧みに作られた当世の特権権力だと、は知っている。昔からあるかのように振る舞い、己の権力の補完の為に総老師によって作られた架空の地位だ。
はエボンの乙女としての条件をすべてクリアしていた。優秀な召喚士であり人の上に立つことに向いている。そして彼女自身がベベルという街を守ることに異存ないのだ。
何より、彼女はエボンの乙女である前にマイカ総老師の孫娘としても有名だった。それが彼女を架空の椅子に座る最大の理由である。
己の手の届く範囲の平和を望んだ操り人形の乙女にできることなど限られるけれど、それでもは目の前の今はまだ小さな光に手を伸ばさずにいられなかった。
「召喚士ユウナ、あなたに話がある」
「はい。乙女に会えたのならわたしもお話ししたいことがあります」
朝の早い時間であり結婚式の当日ではあったが彼らは今のスピラで最も重いであろう話の一つを始めようとしていた。
*
「ジスカル様が遺されたスフィアを見た、と」
「はい。内容は言えません。けど、わたしは止めたいんです」
ユウナは真っ直ぐな目でを見る。真実を探求する目。恐れない。いや、恐れていてもそれも受け止めていこうとする目だ。
は自分の感情のなんとあさましいことだろうと思いながら言葉を紡ぐ。
「ユウナ、あなたはシーモアが歪んでいると思うだろう。実の父親を殺し死の先にある幸福を信じる彼を、正したいと思うだろう」
「さま…?」
「それは正しいことであり、そして彼には通じない理論だと言っておこう。彼はあなたを利用したいと思っている。自分の死の国をつくるために。ただ、彼はあなたを道具として、利用価値のあるものとしてみているだけではないことを、どうか覚えていて欲しい」
すべて、彼女は知っている。出会った頃から、何をしたいかまではわからなかったけれどは知っていた。彼が世界を憎んでいたことも、自らの父親に憎悪を抱いていたことも、すべて。
その目は自分によく似ていたのだ。とても。世界を憎み、自らの祖父に憎悪を抱いていた自身と、そっくりだった。
「もしかして貴女はシーモア老師を」
「彼は愛を知らない。だから真っ直ぐで、それでいてどうしようもなく歪んでいる」
「……」
ユウナは目を伏せる。唇をかみ締めた。
この人は叶わない想いを抱いていた。それはユウナの持っているものと似ていて、けれどもっと悲しいものだ。届かないのだ。いや、届いていても届いていないと彼女は思っているし届いていないということにしている彼がいる。
彼女は知らない。目の前にいるユウナと、ユウナの仲間が彼にしたことを、彼女は知らない。
「さま、わたしはマカラーニャ寺院で老師を」
「召喚士ユウナ、私はね、死人が嫌いだ。死臭がするから。そしてそこまで生きようと願って何をしたいのか、不思議に思う」
「……すみません」
彼女は目の前の年若い召喚士に微笑みかける。彼女に悪いところなどなかった。彼もまた悪いと思ってことを行おうとしているわけではない。
「謝る必要などどこにある、ユウナ。あなたはあなたの信じた道を生き、その結果彼を殺したというだけだ。何処に非がある? そこには信条の違いによるすれ違いがあっただけだ。お互い、命を賭したのなら何を謝る。それは当然の結果だ」
本当ならが剣を持ちその胸を貫いてやるべきだった。それが出来ずに彼はこのスピラにとどまり死を求めている。
ユウナは泣いていた。静かに涙を一筋落として、そのあとは止め処ない涙をどうすることも出来ずにただただひたすら涙していた。
「なぜ、泣くの」
「貴女の、その気高さに」
気高さなんてない。ただそこには陳腐といえる感情しかないのだ。
そう思っては嘲笑う。己を、嘲笑う。
「ユウナ、あなたは愛している人がいるんだろう」
「……はい。でも、それは、許されないことです」
「そんなこと誰が言い切れる。……ユウナ、しあわせになりなさい。それを求めることを責めて良い人など誰もいないから。未来に絶望してはいけない。そうなればあなたの目には未来が見えなくなる」
私と同じ道を辿らないように。
彼女はそう言ってユウナを抱きしめた。
「さま」
「何?」
「わたしは、あの人は貴女を愛しているのだと思います。そして、許されないことはないのだと、そう思います」
それに気がついていないのだ。気がつきたくないのかもしれない。
遅すぎると心の中で何かがブレーキをかけて、そして信じていた道に対してアクセルを踏んでいる。
遅すぎたのだ。
それが自分と彼に一番似合いの言葉だとは思った。
「ユウナ、この数奇な運命を辿るあなたと、愚かな人生を歩む私の、二人きりの秘密だ」
「はい」
「私は、シーモア=グアドを心から愛している。それは私が自ら誰にも明かしたことがない、ただ一つの真実だ。そして私は彼を愛するが故に、彼を殺す」
「それは」
それほど残酷なことは他にない。ユウナならごめんだった。そんな身を切り裂くようなことはしたくなかった。出来るとも思えなかった。
けれど彼女は笑って言うのだ。
「仮初めの花嫁、あなたのことをシーモアは確かに好んでいるよ。穢れない、憧れの存在として」
「違います。老師は貴女を、」
「遅すぎる。例え私が愛していようと、彼が愛していようと、道は分かれた。それだけが確かに存在しているんだよ」
後に残るのは愛ゆえの殺し合いだ。
それはの本心であり、覚悟の言葉だった。
「ユウナ、しあわせになってほしい。あなたには多くの未来がある。道は一つではないしあなたは一人じゃない。それを忘れてはだめだよ」
「それは貴女だって同じです」
は優しく微笑み、首を横に振った。
ユウナがもう一度口を開こうとすれば無情にも時間切れの声。「式の準備がありますのでお二方、そろそろお話を終えていただきたいのですが」優しさを装った声。
扉を開けて良いというの声。
それから扉をシーモアが開けた瞬間、彼に聞こえるか聞こえないかのタイミングだった。
「私の未来は、死んでしまった」
きれいな、完璧な笑み。誰も寄せ付けない。
その言葉は部屋に響いて、ユウナに響いて、床に落ちた。
彼女の未来に届いたかは、わからないまま。
(愛なんていらない)