その綺麗な唇からは唄が流れるんだろうか、それとも恋の呪文か、あるいは愛の囁きか。
「エドガーを守る役目だって」
「…ああ、聞いてるよ」
夜更けに人目を忍んでエドガーの執務室にやって来たのは軽装のだった。パッと見は小間使いの姿だが白くきめ細やかな肌がそれを否定している。
エドガーは彼女がここに忍んで来たことも、親衛隊になったことも頭痛の原因だった。兵士と訓練するのが心配なのだ。グレンは心配しないで兵士の心配をしてやれと昼間にやって来てそう言ったが。
確かにあのリディと並ぶ腕なのだからそれは間違いないだろう。ただ、どうしようもなく心配なのだ。
マクリールに申し訳無いことも確かだが自分の手が届く範囲内で不必要な怪我をしてほしくなかった。
それがただの我儘なのはわかっていた。
「エドガー?」
「いや、なんでもない」
ぐだぐだ悩んでも兵士になることを許可したのは自分なのだ。王の特権を活かして精々関わってやろうと決めた。
そしてふと手元にある手紙の書き手にも紹介しようか、となんとなく考えた。しかしまだ目の前の彼女に許可を取っていないし相手も一つの場所に留まるタイプではない。それに紹介するなら会ったときが良い。それならば実現しても先のことになるだろう。
「グレンがいるから良いが…無理はしないように」
「わかってまーす」
本当にわかっているのかわからない返事だった。
けれどそんなを見てエドガーは最近事務的な話ばかりしていることを思い出した。事務的というか、彼女に駄目だ駄目だとばかり言っているような。
まるで自分の方が我が侭な子どもだ、とエドガーは小さく笑みを零した。
「、何かあったらすぐ知らせるようにな」
「わかってるわかってる。父様より心配性だなあ、エドガーは」
親父殿はもっともっと心配性だよ、とエドガー。
彼はマクリールがどれだけを溺愛しているかを知っている。それは手紙の端々からも感じ取れるし、の護衛役であるサラシャの言葉の端々からも感じる。ただ、人と違った溺愛の仕方をするだけなのだ。その根底はどの親とも変わらない。
「それで、上手くやっていけそうかい?」
「うん。良い人たちばかり。さっきも歓迎会開いてくれたもの。みんな酔いつぶれちゃってたから私はこっそり抜け出してきたけどね」
楽しそうに笑うは、エドガーの知っている笑い方よりも少し大人しく、けれど鈴の音のように軽やかな声をしていた。柔らかい雰囲気はこちらまでホッとしてくる。その笑顔の直後にはエドガーの知るの顔がそこにある。
「どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
女の子はあっと言う間に女性になるのよ。
昔、初めて恋しいと思った女性が言っていた言葉だった。
彼女は自分の尊敬していた人を愛していた。その彼女が、そんなことをふと漏らしたのだ。その頃、エドガーから見れば彼女は十分に大人の女性だった。
今はもう亡きその人も、のように少女と女性の境目の時期があったのだろう。
思い出となった彼女をふと思い出して、もう彼女のことは「思い出」であり、恋しいと思う対象じゃなくなったことをようやく知る。
「おーい、エドガー?」
「ああ、ごめん。少し考え事をしていたんだ」
「…ふうん」
はそれを聞くことなく座っていた椅子に座りながら足をブラブラと泳がせた。
ほんの少しだけ、沈黙が訪れる。エドガーはの肩を見る。はエドガーの胸を見る。会話は、ない。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。明日から早速仕事だからね」
「あ、ああ。気をつけるようにな」
「わかってるよ、心配性のお兄さん」
は猫のようなしなやかな動作で部屋を出た。きっと上手いこと自分の部屋まで戻るのだろう。
小さな黒猫がいなくなってからしばらくして、エドガーはゆっくりと長いため息をついた。いろんな感情を吐き出すように、ゆっくりと。
「これは…マズイかも、な」
何がマズイのか、それを尋ねる人間は誰もいなかった。
エドガー自身、何がマズイのか、と聞かれれば答えられなかっただろう。けれど、その胸の底には確実に今までとは違う何かが形を持とうとしていた。
王のため息など知らず、城の夜は確実に過ぎていく。