たった一人の人。隣にいて、名前を呼んだら笑ってください。
彼女は夢を見ていた。
夢だとぼんやりとわかったのは目の前で微笑んでいる人がもういないからだ。優しく美しい母。もうここにはいない人だ。
「あの人は不器用な人だけれど、誰より国を愛しているのよ」
「私もこの国がすき!母様も父様もミディ兄もみんなすき!」
小さい頃の記憶だろう。ぼんやりとしてはっきりしないが二人は城の屋上から海を見ていた。
どこよりも美しい自慢の海だ。エスツァンの宝。
「でもはこの国を出て行くかもしれないわね」
「どうして!?私ずっとここにいたい!」
「わたしもそうして欲しいわ。でもね、にとっても好きな人が出来たらその人と共に生涯をすごして欲しいわ」
「父様と母様みたいに?」
そう言うと美しい母は優しく笑うのだ。そして照れくさそうに頷く。
儚げに見えた母の記憶しかにはないけれど芯は強く文武どちらも秀でた人だったという。それでも普段はゆっくりとした時間の流れを持った人だったという。それはにも覚えがあった。
「かあさまはエスツァンに来て幸せよ。とても、幸せ。あの人を愛しているしあなたたちがいるから」
「母様?」
「だからね、もミディアもしあわせになって欲しいわ。わたしとあの人みたいに、想いあって欲しいの」
王族という立場上政略結婚は避けられない道だ。それをあの頃から彼女はわかっていて、話をしていたのだろう。幼いにはわからなかった話だ。
優しい記憶で包まれている母はいつだって周りの幸せを願っていた。そして父の隣で幸せそうに笑っていた。はそれをよく覚えている。
「……!……、!」
誰かが呼んでいる。
がその声の方を向こうとしたとき、思い出の向こうで母がこちらを見ていた。
「、愛している人はいる?」
「母様、うん、私どうしても会いたい人がいる。死ぬかもしれないと思ったとき、あの人に会いたいと思ったの」
それを聞いた彼女は笑ってくれた。良かったと言葉の代わりに、とても嬉しそうにを見ていた。
「、わたしはあなたたちの幸せを願ってるわ」
「母様」
微笑みが光に溶けたとき、は目を覚ました。
「……エ、ドガ…」
「!良かった…」
エドガーは心底ほっとした顔をしての頬に手を当てた。温かい。生きている。それだけでもう満足だった。こちらを見て名前を呼んでくれている。それでもう十分だった。
その後ろで同じく心配そうにしていた二人がほっと息を吐いたが一人は直後に不機嫌そうに顔を顰めた。
「野郎にさらわれていくのか、結局」
「こっちに来てくれたら非常に喜ばしい限りです」
「グレン、てめえ」
ジロリと睨みつけたミディアだったが悪あがきということはわかっていたので舌打ちだけしてその場にとどまっていた。
当の二人は周りのことなんて気にせず二人の世界なのだから。
「ここ、城?」
「いや、城に向かっている。もうすぐ着くはずだ」
ではなぜエドガーがここにいるのか。王は簡単に城を出て良いわけがない。
そしてエドガーが城を出た原因が自分であることに気付いたは飛び起きた。
「ゴメン!…っ」
「謝ることはない。は任務を果たした。立派なことだろう?」
その瞳は優しい。はホッとするけれど罪悪感は募るばかりだ。この人を心配させ、城から出させてしまったのはなのだ。迷惑をかけたのはなのだ。
そうして落ち込みかけていると「ただ」とエドガーが言葉を続けたので伏し目になりそうだったところをもう一度顔を上げた。
「ただ、これ以上危ない真似はさせられない」
「…本当、ゴメン」
「帰ったらゆっくり話そう。今は傷を癒した方が良い」
温かい手がまぶたを閉じるように導いた。
は逆らうことなく目を閉じた。
「ミディア、の傷が癒えたら二人で国に帰ってくれないか」
「ああ。…良いのか?」
「当たり前だ。…こんなに心臓が止まりそうになるぐらいなら無理矢理帰ってもらった方が良い」
名残惜しそうに触れる姿は帰って欲しくなどないということが見え見えだった。
そこで忘れ去られていた一人がようやく口を開いた。
「陛下、意識が途切れる直前、はある人を思い浮かべたらしいですよ」
「エリー、いたんだな」
「隊長に気付いてもらえなくて残念です。では、こちらも傷がひどいので寝させてもらいます」
口が開けないエドガーを放って重傷の部下も隣のと同じように再び目を閉じた。
ここは十代の初恋物語の舞台か。
悪態をつく兄の姿が見られた。