「見つけましたよ、陛下」
陛下、と敬われているはずなのに、いつもにこにこ優しくされているのに、どうしてだか彼はいつも彼女に敵わないと思ってしまう。その瞬間もそうだった。
ごく普通の侍女と思っていた彼女の、他とは違うところといえば彼が幼い頃から世話になっているばあやの末の娘であることだろうか。
それぐらいしか彼には考え付かなくて、だから世界崩壊後にどうやったのか彼の元までたどり着いた時、彼は言葉が出なかった。そんな彼を見て彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。
「私をどこの国の、どなたの侍女とお思いですか」
なんてことはない顔で目の前で笑う彼女の言う通りで、彼女は機械を操り世界のために国を飛び出すフィガロ王の侍女だった。
だからと言ってメイド服を改造して動きやすくし、機械技師の技量と一人前の体術を習得し自らの傍で従事するときかないとはエドガーも想像はしなかった。
「エドガー、こんな時間まで夜更かしですね」
旅をしている間の彼女の陛下呼びは他の仲間とのこと、街などで要らぬ騒動にもなりかねないので禁止となった。他の仲間と同じように名前で呼び、一仲間として接することが二人で決めたルールだった。彼女は元々誰に対しても敬語で話すので名前の点以外はほぼいつもどおりだ。ほんの少し、彼女が気安くエドガーに話しかけることが増えたぐらいだろうか。
真夜中に夜空を見上げるのはエドガーのたまの息抜きで、城にいる頃もそっと部屋を抜けては夜空を仰ぎ見ていた。
今日の艇は夜空を翔けることなく静かにその体を休めている。静かな夜だ。
「昔から、どうして都合よく俺が起きてるってわかるんだい?」
「さあ。どうしてでしょう」
彼女はホットミルクを用意してくれて、本人は味見で飲んできたからと、隣でエドガーを見ている。
なんとなく、最近いじっている機械の話をすれば、昔は見ているだけだった彼女は自分の意見を返してくる。
機械のことにしろ、戦う術にしろ、本当に、どこでそんなことを身につけたのだろうかというぐらい、彼女はたくさんのことを身に着けていた。エドガーが知らなかっただけで、共に城で過ごしていた頃から密かに学んでいたことはその知識や技術を見れば明らかだった。
そんな彼女がやって来てからこちら、セッツァーににやりと笑われたりロックにからかわれることが増えた。そのあたりは適当にかわしてしまうが、マッシュにしみじみと頷かれたりティナにしあわせねとぽつりと呟かれた日には気恥ずかしくてなんと言っていいのか困ってしまった。
あの日、どうしたって現れるはずのない彼女が目の前に現れたとき、エドガーは驚きと同時にどうしてだか心が騒いだのだ。
「泣き虫のばあやの娘が、仕える主君のためにこんなところまで来るなんて思わなかった」
「あなたは私の夢ですから。夢のそばにいたいのは、私のわがままなんです」
エドガーを夢と言いしあわせですよ、と笑う彼女は夜の静けさの中で溶け込むようにいるのにその輪郭ははっきりとして、月の向こう側にいる太陽に照らされる星だ。
彼女はこんなにも光り輝く星だったのか。もしそうだったのなら記憶の中の泣き虫な少女ばかりを覚えていたエドガーはあの砂漠の海で何も見えていなかったに違いない。
多くの女性を見てきたと自負していたのに最も近くの女性すらろくにわかっていないのだから、もしかしたら己の目は実は節穴なのかもしれない。エドガーは静かに落ち込んだ。
だから、その時出た言葉は本当に、心から自然と口に上ったものだった。
「美しい人になったね、レディ」
「それは……それは、身に余る光栄です、陛下」
ホットミルクを口にするただの旅人を前に、少し変わったメイド姿の彼女は恭しく、美しいと称された通りに跪き、頭を垂れた。そして、なかなかそこから動けない。
「?」
「本当に、私にはもったいない」
そうしてエドガーは思い出す。今自分が彼女になんと呼ばれていたか。こことは違う懐かしく愛しい場所で、彼女は彼をどう見つめているのか。
自惚れではなく、自らのために美しくあろうとしたその人をエドガーは見つめる。
「ここに玉座はないよ、」
「はい。でも、私にとって貴方がいる場所はいつだって玉座の間ですから」
美しい人は跪き、顔を上げない。
静かな夜だ。船はひと時の休息を味わい、誰も彼もが寝静まり、あるいはこの夜を受け入れている。
彼女の夜は、どんな夜なのだろうか。
ただのエドガーは目の前の女性と同じように床に膝をついた。差し入れてくれたホットミルクはもう飲み干して、空になったカップをそっと床に置く。
顔を上げるようには言わず、そのつむじを見てみる。
「こんなに凛々しくもなられては、少し寂しいね」
近すぎる声に慌てて顔をあげようとする彼女のその頭に軽く何が触れる。はっと、息を呑む音。頭を撫でるその手は優しく、彼女にエドガーの顔は見えない。
「」
エドガー陛下は女性に優しい。
それは貴族の姫はもちろん自らの臣下にもそうであるし自らの国民にも、どの国の人間にもそうであった。
女性に、と頭についても本当のところ彼は人には優しい質だと、彼の近くにいる人間ならばみんな知っている。
顔をあげられない彼女の頭を撫でるその人は今どんな顔をしているのか。には甲板の床しか見えない。
彼を今何と呼べばいいのか、には呼ぶべき名前を持てなかった。
「」
「はい」
「旅をして、俺は不謹慎かもしれないが楽しいよ」
「はい。そう、見えます。昔のあなたを見ているようで、とても眩しいくらいです」
まだ幼い頃、マッシュも城にいて、王位だなんだと、そんなことも本人達には関係がなく、もただ幼く元気で明るい二人をお世話をするのだと追いかけ回していればただそれでよかった。
今はもう、エドガーはフィガロの王で、はその侍女だけれど、今のエドガーはあの日の彼をよく思い出させた。
エドガーと、屈託なく呼ぶ声が、のいない間に培われてきた彼と仲間の言葉のやり取りが、にとってどれだけの意味があったのか。
「」
「はい」
「どうして俺がここにいるのがわかったんだい?」
フィガロの夜は砂漠の砂にすべて音を飲み込まれたように静まり返る。人の気配が極端にないそういう日、エドガーはよく一人で夜空を見上げていた。
そうしてそんな日の夜、彼が起きているのを知っているかのように彼女は時折姿を見せ、今日のようにあたたかい飲み物を、体が冷えないように羽織るものを、当たり前のように彼に手渡した。そして少し話をして、それから眠るために部屋へと戻った。
今日もその時と同じように、空を見上げていた。そうしたら、彼女が城にいたときのようにやって来た。
彼女はいつだって彼の侍女で、いつだって彼のことを見ていた。
旅の中でも手入れを出来る限り行うの髪はやわらかい。それは彼女自身のためというよりは、彼女が仕える王のためだということを、エドガーは痛いほど知っている。王の侍女であるために、それに見合うように、彼女はふるまい、凛と立つ。
泣き虫の少女が泣かなくなったのは、いつからだっただろうか。エドガーはもう覚えていない。
「陛下……エドガー、あなたは、知っていましたか」
「何をだい?」
「寂しい時、あなたは夜空を見るんです。ひとりで、人知れず」
「……それは、知らなかった」
そっとエドガーが手を離せばようやく彼女は頭を上げて、目を細めて微笑んでいる。困っているようにも、秘密を持っていたことを少し含むような、どちらにも見える微笑み。
の言葉が本当なら、エドガーにとって今日はそんなに寂しいことなんてあっただろうか。
昼間、船は空を飛び、時折現れる魔物を倒しては航路を進む、順調な移動日だったはずだ。
変わったことなんてなくて、エドガーは普段通り過ごし、なんてことない会話をしていた。次の街での補給の話、戦闘での連携の話、この旅が終わった後の話。
エドガーは、フィガロに当然戻るけれど、彼女も同じように戻って彼に仕えると、そう答えた。他の皆は決まっていたり、いなかったり、ささやかなことだったり、ずっと先のことだったり、口にしたものはいろいろだった。旅はまだ続くけれど、いつか終わる。彼はただの旅の仲間のエドガーからフィガロの王様のエドガーへ。彼女は旅の仲間のからフィガロ王の侍女のへ。仲間はエドガーと、変わらず呼んでくれても、それはきっと今よりもずっと少なくなる。旅が終われば。
「エドガー」
「……俺を、そう呼んでくれるだけの人がいる日々は、眩暈がするほど美しいね」
彼は王だった。国を背負い国を愛し国のために生きると決めた、王だった。
彼は弟のために嘘をつき、可憐な花を慈しみ、愛する民をその腕で包むと決めている。
それでも、は知っていた。その実、その人はただのエドガーという人間で、優しいからこそ、彼の、彼だけの望みはいつだって夜の闇の底に沈んで、こんな日にしか出てこない。
だからエドガーはそんな夜、一人になるのだ。はそれを本人よりもずっと前から、知っていた。
「そうできる日々がこの人生で存在することは、私にとっては奇跡で、儚くて、心が震えるほど、しあわせと、思っています」
真っ直ぐにエドガーを捉えるその瞳が、どれだけの勇気を奮い立たせてその言葉を紡いだのか、エドガーはわかってしまった。
夜が明けて、太陽が昇れば二人はいつも通りに振舞えるだろう。何てことのないように、その実綱渡りのような関係の旅の仲間として、息を吸うように自然と振舞うだろう。
けれど今は夜で、そして今彼の望みは彼の沈んだ底からそっとすくいあげられて、目の前に現れて、彼の心に問うている。
だから、彼は名を紡ぐ。
「」
「はい」
「今から私が望む言葉が君にとっての幸いなのか、俺にはわからないけれど、それでも俺が寂しいと知っていた君に願ってもいいのなら」
エドガーの表情は彼女にどう見えているのだろうか。
の表情は彼にどう見えているのだろうか。
「旅が終わってもエドガーと、そう呼んでくれないかな」
みるみるうちに彼女の瞳は見開かれて、あっという間にその視界が滲んで、その頬に透明な雫が伝う。
その言葉の意味は、彼にとっても、彼女にとってもとても大きなことだった。彼の名前を呼び続けることは、呼んで欲しいと言われることは、王と侍女の二人にとって儚さの先にある不確かな未来だった。
それをしあわせと呼ぶのか、それをまだ二人は答えられないかもしれない。
それでも、今はまだ答えがない願いに、はこの夜に答える必要があった。
「私をと呼んで、あなたがその名前を呼ばれることを私に望むなら、望まれる限り、私はそうしたい」
「……名前を、呼んでくれないか、」
「はい。……はい、エドガー」
瞳から零れ落ちる涙は止まることを知らず、なんとか堪えて笑うようにするの笑顔は不格好で、美しかった。
エドガーはハンカチを取り出して、その目元を拭って、それでも零れる涙に困ったように微笑んで、それからその眦に唇を寄せた。
「泣き顔もいいけれど、泣き止んで笑って欲しいな」
「あなたが、泣かせているんです」
「そうだね、では、泣かされるのは俺だけにしておいて」
もう一度眦に、そうして今度は頬に、エドガーはに唇を寄せて、その青くやわらかな光を持つ瞳に彼女の姿を映す。
それでもまだ涙が止まらない彼女は、今度は涙を堪えず、眩しそうに笑う。
「そんなひどい人、あなただけで十分です」
それにはエドガーも笑って、そしてその美しく笑う人に今度はそっと口づけた。