迷子になったらあの星を見つけたらいい。
声の指し示す星のことを知っていたはずだった。でも改めて目の前に現れたその星は、その時いつもよりいっとう輝いて見えて、もう忘れられそうになかった。
飛空艇の甲板で夜風を受ける横顔は静かで、太陽の下で輝く金の髪は月夜の下ではその輝きを潜めて夜に溶け込もうとしていた。
誰もいない、一人の空の下のその姿が私の一番好きなエドガーだった。
風を受けて気持ち良さそうに目を閉じる時もある。思いつめたように遠くを見つめることもある。
今日はただ夜空を見つめているように見えた。
夜の方が魔物との遭遇率が低い空もある。
今日の航路はそれで、夜の空も乙だと笑う男は操舵席で鼻歌でも歌ってる頃だ。
それ以外の面々は体を休めて眠りについている頃で、起きているのは見張りについているエドガーぐらいだ。次の見張りであるロックとの交代時間まではまだしばらくある。
女性陣の見張りはエドガーにより断固拒否されたし他の面々も基本的にはそれで同意した。
だから本当は眠っているはずの私にエドガーは驚くでもなくくるりと振り返ったかと思えば優しく声をかけてきた。
「人の顔なんて見て楽しいかい? どうせなら隣で話さないか?」
扉の隙間からそっと覗き見ていた間抜けな私は夜の闇に溶け込む低く優しい声にふらふらとその身を投げ出した。
様々な理由でこの船に乗る仲間たちの中でも私は一番気軽にこの船に乗っていると思う。
気軽で、どうしようもなくて、真剣だ。隣に来てしまったからまじまじと顔を見るわけにはいかないななんて思い、隣の気配に心地よさを感じるぐらいには不謹慎で真剣なのだ。
そうしてこの不謹慎な私にエドガーは容易く飴のような言葉を与えてくれる。
「君と初めて出会った夜もこんな風に静かだったな」
「あの時はまさか世界を救う旅になるなんて思いもしなかったけどね」
隣の人の横顔が見たくて、それだけで旅に参加した私の動機は単純だった。隣の人が好きだから。ただそれだけだ。崇高な理由も何もない。よくある感情で、私にとっては大事な感情。命を懸けてでも、と言われたら正直今もわからない。わからないけど、ここにいることを後悔したことはないから多分この選択で良かったんだと思う。
「のんきな旅人だったけど、今の旅も悪くないよ」
「そんなふうに言えるのは君ぐらいだろうな」
微笑むあなたのおかげだとは言えない。
確かに始まりは最悪だった。初めてエドガーと出会ったその日、一人旅の私は乗合馬車がモンスターに襲われた折にはぐれて迷子になり、このままではあわや野垂れ死にだったのだから。
そこへ通りがかったエドガーたちに助けられ、なんとなくそのまま旅に同行して今や世界を救うご一行の仲間だった。
魔法なんてものを目にすることができたのも、大事な友だちができたのも、その子の一大事にそばにいられたことも、あの日あそこで不純な動機を否定しなかったからだ。だから、私はこの旅を大変だとは思っても嫌だと思ったことはない。
「あの時はまだこんなにたくさん仲間はいなくて、心許ない時期だったじゃない? よく仲間に入れてくれたよね」
その時はエドガーは私を見た瞬間に口説き、ティナはよくわからないという無表情だったしロックは相も変わらず無鉄砲だった。
エドガーは何を思い出したのか口元を手で隠しながらくすりと笑った。そういうところにこの男の優雅さを感じてしまう。
「泣きそうになりながらこちらに助けを求める女性を無碍にするなんて男の風上にも置けないからな」
「あの時は……焦ってたの」
思わず顔を伏せる私の隣で微笑ましいと言わんばかりの気配が嫌でも伝わってくる。
ただ本当に、当時の私は動揺していた。
乗合馬車が襲われ、馬車を放り出されてしまった私は今どこにいるのかなんてわからず途方に暮れていた。どちらに行けば街に行けるのか、元いた場所すらわからなくて頭が真っ白になって、一歩も進めない状態だった。
そんな時にはぐれた馬車に出会って一人放り出されたままの私を探してくれたのがエドガーたちだった。
「あの時のエドガー、かっこよかった」
「姫を救う王子みたいだったろう?」
「本当は王様だったけどね」
故郷の王様の顔なんて見たこともなかった。随分と若くて美しい王様であることだけを聞きかじる程度で、そういう雲の上の出来事よりも私は外の世界がどうなっているのかの方が大事だった。
だから何にも知らずにエドガーのことをかっこいいと思い、なんとなく目的のない旅から目的のある彼らにくっついていくことにしたのだ。
「ねえエドガー」
「なんだい?」
女性相手に口説かずにはいられない、それが礼儀だと言い切る砂漠の国の王様は本当に優しく、それは王様と思えぬ優しさだった。
少し照れくさいから、私はまっすぐ夜空を見つめる。エドガーがどこを見てるかは、わからない。
「初めて出会った日の夜、目印の星の話をしてくれたのを覚えている?」
「ああ、知っているだろうと思ったのにあんまりにもその日あの星が綺麗で、話すきっかけにしてしまったんだ」
それが本当なのかなんて私にはわからないけれど確かに綺麗だった。
言われるまで気づきもしなかったことが信じられないぐらい、あの夜その星ははっきりとあった。旅をする人は必ず方角の目印にするそれを、迷子になった私は思い出すことすらできなかった。後から思えばどうして忘れてたのか不思議なぐらい。そのぐらい、一人で取り残されたこととは衝撃だった。
「あの時気が動転して見ることすら思いつかなかった。……私ね、旅を終えても夜空を見上げてあの星を見つける度、エドガーのことを思い出すと思う」
「私を?」
私は思わず微笑んでしまう。あの時私は顔を真っ赤にして申し訳無さと恥ずかしさで頭がいっぱいだったけど、たしかにあの星は綺麗で、そしてその星明かりはまっすぐに地上に届いていた。
「あの星がある限り、私は迷子になった恥ずかしさも思い出すんだけど、あの星灯りに照らされて綺麗だったエドガーの横顔をいつだって思い出せるんだって思ったら、迷子になるのも悪くなかったって思うんだよ」
旅に出ていなければ私はエドガーに出会えなかった。今日の夜を過ごせなかった。名前を呼んでもらえなかった。
きっと自国の愛すべき国民にしかなれなかった。
今の私はエドガーはもちろん、ロックやティナやマッシュやセリス、たくさんの仲間と味方がいる。私がどのぐらい役に立てているのかはわからないけれど、みんなが私を仲間だと、名前を呼んでくれるだけで最高の旅だった。
「いつまでも続く旅じゃないけどね、私この旅が嫌いじゃないよ。大変な旅だけど、出会えるはずもなかった人と仲間になって、一緒にいる。この旅をしてたから友だちになれた子がいた。会えなかっただろう私の国の王様に出会えた。私はフィガロに生まれて良かったなって、改めて思えたんだ」
「まるで別れの挨拶だ」
「あと少しでこの旅は終わりでしょう?」
「それじゃあ君は俺のことを星より遠くから見ているのかい?」
首を傾げた。
だって、旅は終わるのだ。終われば、私たちはそれぞれの道を選ぶ。そしてそれは多くの場合別の旅路を意味してる。
私はエドガーが好きだけど、エドガーがフィガロの王様だということはわかってる。今こうして気軽に話しかけているこの日々が特別なんだって、ちゃんとわかってる。
「エドガー、だって、私はただの旅人で、あなたは私たちの王様だもの」
「そうして君は俺を名前で呼ばなくなり、星を見て俺を思い出すのかい?」
なんだか雲行きがあやしい。
穏やかな声だった先ほどのエドガーは影を潜めてしまった。仲間だと言いながら他人のように振舞おうと決めているのが嫌なんだろうか。嫌だろう。私も嫌だ。そんなことをエドガーにされたら悲しくてどうにかなってしまいそうだ。
そう思っていても、でも、私はロックほど真っ直ぐに名前を呼べない。それを見透かすようにエドガーは私の名前を呼んだ。
その声は私を確かめるようだった。そこにいることを確認するようだ。青い瞳は静かに私だけを見ている。
今は星の瞬きも船が空を切る音も遠くで感じられる。
「言われて気がつくのも間の抜けた話だ」
「?」
「名前を呼んでくれないか」
「……エドガー?」
私の声は我ながら不安そうで、エドガーが私の名前を呼ぶようにはいかない。
私はエドガーが好きだ。それと同時にこの旅も好きだ。仲間も好きだ。仲間のエドガーも好きだ。
いつまでも続かないと言ったのは私なのに旅を終えても会えるかもしれない希望に仲間という言葉で縋っているのは私だ。
私がエドガーを見つめる瞳の色は他の人といる時は違うと言ってくれたのはティナだ。
その瞳の色の名前を何と呼ぶのかティナは知らなかったけれど、なんだかいつもお姉さんの私が子どもみたいだと悪戯めいて笑うティナに私は何にも言えなかった。
「もう一度」
「エドガー」
「もう一度だけ」
「……エドガー」
名前を呼ぶ度に私の思いはエドガーに透けていくような気がした。透けていってしまえばいいと思った。名前を呼んでこの馬鹿みたいに幼稚で不純で真剣な気持ちが全部全部、伝わればいいと思った。
喉が熱くなり視界がぼやけていく中でエドガーの手がまっすぐ私の頬へ伸びた。そっと、そこに本当にあることを確かめるように、あるいはそこから私が逃げることを恐れるようにその手はゆっくりと私の頬に触れた。
こんな風に触られたのは初めてだった。
「星よりも遠く俺を置いて行かないでくれ」
遠くに行くのはエドガーだと私は思っていたのに、その瞬間、夜の砂漠の真ん中にひとりぼっちなのはエドガーなのかもしれないと思った。
星を見てそれがどこに向かうかをエドガーは知っているのに、エドガーはそこにいるしかない。砂漠の星になることはひとりぼっちに近い気持ちもたくさんあるんだろう。ひとりそこに居続けることは、あちらこちらへ動き回る周りの仲間たちの中ではさびしいことなのかもしれない。今は一緒にいるように感じるのは、お互い同じ気持ちなのかもしれない。私よりも、エドガーはもっと前からそう思っていたのかもしれない。
頬に伸びていた手がするすると縁をなぞり、首を通り、背中に回る。私は一歩引き寄せられてその胸の中に納まっていた。
何が何だかわからなくてかちんこちんに固まっている私をエドガーは望めばいつでも解くつもりなのがわかるような弱弱しい力で包んでいる。
ただ寂しさに襲われて混乱しているのかもしれない。私でなくとも、こうして触れたかもしれない。
でも今この瞬間エドガーは世界で一番ひとりぼっちで、エドガーの隣には私しかいなかった。
それだけで十分だった。
彼よりも短い腕を精一杯その背中に回して、出来る限りの力で抱きしめた。ぎゅうぎゅうに。星のように遠く誰にもさびしいと言えない人のために。
「エドガー、私、ここにいるよ。だから泣かないで」
「……泣いてなんかいないさ。泣いてるのはきみだろう?」
少しだけ距離を開けて、でも腕の中のまま、私がエドガーを見上げればエドガーは私の目元の涙を拭った。
ぽろぽろ落ちる涙に気が付かなかったし止められない私は今度は涙を見られるのが恥ずかしくて胸に飛び込んだ。
「エドガーの代わりに泣くから。ここにいる限り」
「……ああ。私の代わりに、よろしく頼むよ」
優しく降る言葉に私はまた涙が滲むのを感じたけれどええいこの、と思い切り、悲鳴が上がればいいと願いながら力の限り抱きしめたけどエドガーは痛いよと優しく笑うだけだった。
(一番星の向こう側)