「おはよう、ブラスカ、アーロン」
よく二人の元にやってくる彼女はいつも穏やかな笑みを浮かべていた。
最初は随分と世間知らずの彼女だったが、ブラスカに懇切丁寧に、アーロンに少々雑に教えてもらいつつ、今は以前よりも多少世間のことを間なんだ。そして今はベベルの外に興味津々である。
寺院に向かう道すがらに出会った彼女は朝から家とは違う方向からやって来た。
「おはよう、。随分と早いね」
「ええ。朝からずっとベベルの街を散歩していたの。すごく気持ちよかったから、二人も今度行かない?」
「ぜひ行ってみたいね」
ブラスカはにこにこ答える。
からの誘いを断るということを彼はしたことがほとんどなかったし、もうすぐ召喚士として旅に出る彼としてはもちろんその誘いを断る理由がなかった。自分の家族が残る、このベベルの街を最後にゆっくりと見て回りたいのは道理だろう。
良かったと微笑むはそのあとにじっとアーロンのことを見ていた。睨むに近いぐらい、じっと彼しか見ていない。
朝も早く、今はまだ三人だけしかいないからいいとして、傍から見れば随分と奇妙な様子である。
ぎゅっと握りこぶしを作り、は意を決して声出す。
「アーロン、お願いを聞いてくれる?」
「聞かない」
「開口一番にそれはひどいんじゃないかい、アーロン」
仕える召喚士はおや、ととがめるようだけれどアーロンが拒絶というよりは聞きたくないという希望を通そうとしているのを声色から読み取ったらしい。本当にアーロンが嫌ならとっくにここから立ち去っているだろう。
アーロンはため息ひとつ。頬を赤らめている相手に渋々視線を向けた。彼からしてみれば随分と慣れてしまった光景だ。
「なんだ、」
「私と結婚してください!」
勢いよく頭を下げる彼女。それを目の前に見下ろすアーロン。
この問答は何度もあったが、ブラスカを前にしては初めてだった。
そのためブラスカは目を丸くし、アーロンは呆れていた。
「また、か」
「何度もあったのかい?」
「アーロンったら返事をくれなくて」
すぐに頭を上げたは返事がないことを気にも留めていない。むしろ自身答えは期待してないようだった。
もちろん、それは彼がブラスカのガードだからだ。ガードとして旅立つ以上、無事で帰ってくるという保証はないしその旅の直前のプロポーズを受けるなんて早々ない。
このままではは旅立つ前日と言わず当日まで告白し続けるだろう。アーロンも振る舞いこそ丁寧だけれど決して諦めない彼女の姿に思うところがあった。
「、ちょっと来い」
「愛の告白でもしてくれるの?」
「まあ、穏やかにね」
ブラスカはやることがあるからと早々にその場を立ち去り、往来でもあったのでとアーロンもその場を後にした。
ベベルの今の時間は、どの家も仕事をし始める頃で、だんだんとにぎやかになる時間帯だ。そこで込み入った話なんてするものでもないし聞かせたいわけでもない。彼女はそのあたりに気が付いていないようだがアーロンはさすがにそういう野次馬をされるのはごめんだった。
「アーロン、どこへ行くの?」
「人の邪魔にならないところだ」
人がいないところ、人が邪魔しないところ、とは言わない。あくまでも自分たちが「邪魔」として考えている。
そうしてアーロンがを連れてきたところは、奇しくも十年後、ある人物たちの結婚の舞台となる場所だった。今は何もない、ただ見通しの良い場所である。
「ここ、眺めがいいわ」
「おまえ、わかっているのか?」
「なにを?」
「オレは、ガードだ」
はっきりと刻まれた言葉には景色に向けていた視線をアーロンへと向ける。
仏頂面の男が不機嫌そうにの前に立っている。きょとんと、彼女は首を傾げる。
「もちろん、最初から知ってるわ」
「なら」
「どうして、結婚して、なんて言うのか?」
そのぐらい、彼女だってわかっているはずなのに、彼女は凝りもせずここ最近毎日のようにアーロンに結婚してくれと挨拶代わりに告げる。
ブラスカの知り合いだという彼女と知り合ってしばらく経つがベベルの中でも随分と大事に育てられてきた彼女が家を抜け出してでも会いたいと思うのがブラスカやアーロンなのだから世の中どうなっているのだとアーロンからすれば頭が痛い。あまつさえ、おまけのような男に惚れたのだと真っ直ぐな感情を向けられ続ける苦行をなぜ旅の前にこなさなければならないのだと、何の嫌がらせだと彼はできるなら頭を抱えてしまいたかった。
なんの計算もない、ただ真っ直ぐにぶつけられる行為を無下にしなければならないことを、アーロンは機械のように受け流せない。
「そうだ」
「それは、私がアーロンを好きだからかしら」
「そうだとして、召喚士の旅だ」
「帰ってこないかもしれない?」
「ああ」
召喚士とガードの旅は過酷だ。シンを倒す旅なのだ。生半可な気持ちで始めるものでもないし、その途中で消息を絶つことも珍しくはない。
この長い年数の間で大召喚士として名を馳せた人間のその足元で物言わぬ躯となった人間の数はどれだけのものか。
アーロンは数えられるものではないと思うけれど自分たちがその足元で横たわる無念の躯になることだって十分理解していた。
だからすべて置いていくのだ。召喚士ブラスカのためだけに、ガードとしてアーロンはすべてを賭けると決めていた。
「返事をもらえるなんて、思ってないの。ただ、アーロンがどう思っているのか、それだけは、知りたい。それは、本当」
言いたいことは言い、譲らない頑固なところもある彼女が弱気になりながら告げた言葉はいつにもまして真っ直ぐで、そしてただの願いだった。アーロンにどうしてほしいなんて望んでいないのは明らかで、本当に望んでいるのは結婚ではなく、この答えなのだと声が、その姿が、そう告げている。
早朝からここで落ち合う人間はおらず、鳥が気ままに羽根を休めたり、再び飛んでいくだけだ。
アーロンは、彼女がどう答えてもあきらめないことを短くはない付き合いの中で知っている。そして傷ついてでも真実に手を伸ばしたいという強さを持ち合わせていることも、知っていた。
「辛いことしか言わないぞ」
「いいわ。なんでも受け止めるって決めてるもの」
「もし掴めたら、離すのが嫌になるんだろうな」
の目がまんまると開かれ、そして、泣きそうな顔で笑う。
もし。
その答えの意味をわからないほど、は鈍くはない。
「それならずっと抱きしめてほしい」
「それが出来ないから言っている」
「もし戻ってきたとしたら、そうしてほしい」
もしも戻ってきたとしたら。
そんなことは、ブラスカが途中で諦めたり、死んでしまうことがない限り、あるわけがない。ブラスカが諦めることはないし、彼が死んでしまったとしたらアーロンは彼が死ぬ前になんとしてでも彼を守る。自分が死ぬまでブラスカを死なせることはさせないと決めている。
だからそれはあり得ないもしもだった。
がアーロンの方へと距離を詰める。逃げようと思えば逃げられるぐらい、ゆっくりとした足取りだ。避けようと思えば避けられる彼女の腕を、アーロンはただ黙って受け入れる。
「もしも旅が終わった後、また会えたなら、その時は私と一緒にいてね」
アーロンの耳元、唇を寄せるように囁かれた言葉。
アーロンの耳にはしっかり届き、回した背中のやわらかさにアーロンはしばし甘んじた。
(Carolla 6)