沖矢昴は大学院生なので時折大学院生らしいことをしなければならない。例えば米花の図書館で調べものをしたり、だ。

「沖矢さん」

 そうすると様子を窺いながらも声をかけてくる少女がいる。
 受験生だという彼女と話すようになったのは隣で頭を抱えていた参考書の問題を見るに見かねた沖矢が助けたことがきっかけだった。
 家が近所だという彼女は休みの日はこの図書館に来て勉強をしたり好きな本を読んでいるのだという。学習室ではなく少し奥に入った場所にあるスペースはちょっとした穴場で、沖矢も調べものをしたり気分転換にここを利用していた。
 もちろん、沖矢が訪れるのはそう頻繁ではないものの隣の少女は沖矢を見つけると花が咲いたように微笑むので来るのをやめるべきかいなか、いつも迷ってはこの図書館を訪れていた。

「今日も勉強ですか。熱心ですね」
「部活もしてないし、周りの子は塾に行ってるから私も勉強しないと置いて行かれそうで」

 彼女は英語は苦手なようだったが他の科目は特別できないわけではなかった。沖矢が大学院生と知ると時折質問してきたがどれも説明をすれば理解をし、置いて行かれるほどの成績ではなさそうだった。
 おそらくは利用頻度が高くなっているのだろう。
 こんなに晴れた土曜日の昼間を勉強にあてることは悪いことではないが世の受験生は実に退屈な昼間を過ごしているのではないかと、そんな日々をとうの昔に置いてきてしまった沖矢は内心憐みの視線を向けていた。
 年頃の女の子がするオシャレをこんな図書館で披露することは沖矢昴にとってはナンセンスに思えたしその対象が自分であることもまた実に無為なことだった。
 ただ、そんな少女に面と言われてもいない類の話を突きつけることを「沖矢昴」は積極的には行わない。ただ、当たり障りのない言葉を気まぐれに投げるだけだ。

「難関校を目指しているんですか」

 彼女の口にした名前は都内でも名前の知れた大学で、確かに勉強をしなければ入れないが彼女の成績はこのまま着実に学べば手の届かないものではない。朝から晩まで図書館にこもるにはまだ早い。
 真面目で、あどけなく抱えている思いを隠そうと必死な少女はそれでも毎週ここに足を運ぶのだ。
 沖矢は日本でそういうことを感じたことはなければそういった高校時代も過ごしていない。沖矢として振る舞う彼の日々はあまり日の光に当たるような類ではなかった。弟妹もそういった類の人間ではなく、目の前の彼女と年端の変わらぬ妹と照らし合わせてもどうもピンとこない。
 だから目の前の少女は幼く、拙く、それを無下にすることはその世界を伝聞でしか知らない沖矢にはできかねた。

「今の時期から頑張る高校生に、少しご褒美です」

 彼にとってこの図書館に立ち寄る必要性はほとんどない。強いて言えばこの図書館の奇妙に偏った寄贈図書が物珍しく、そして読みごたえがあるからだ。返却日を彼女のいる日に合わせる必要もない。
 そっと彼女の目の前の机に置いた飴だって小学生からもらったものだ。特別なものではない。小さなパッケージに描かれている四葉のマークが、目の前の少女に似合うと思った、ただそれだけだから。
 気まぐれの贈り物はこぼれんばかりの輝きを彼女の瞳に満ちさせ、その満ち満ちた目は沖矢だけを捉えている。彼女がなんとかお礼の言葉を述べている間に沖矢は素っ気なくどういたしましてと返すだけで、手に取っていた本を棚に戻してしまう。

「あまり図書館にこもらず、たまには外で遊んでもいいと思いますよ。では」

 唐突に別れを告げる沖矢を止める言葉を少女は持たない。じゃあまた、といつもと同じ言葉を繰り返すのが精いっぱいだ。
 きっとこの背中を追う瞳がある。
 輝かせてみたのは自分なのに、そんな瞳で見てくれるなと立ち去るのもまた自分である。
 とんだ酔狂だ。
 少しだけ息を漏らして口の端を緩めたが、図書館を出る頃には彼はいつもの何を考えているのかわからない、正体不明で不敵な工藤家の居候となっていた。


(それはまぼろし)