「もうやだしんどい」
言葉に出してしまえばそれは頭を殴られるような衝動とまではいかなくても体の気だるさを増すには十分な言葉だった。思っていることを口にしてしまうと実感してしまうもので、つまり彼女は大変疲れていた。
その日はとても仕事がきつくて、出先の仕事から家に帰るよりもその人の家の方が近くて、普段なら踏んばってでも家に帰るところを振り絞った声で泊めてくれと頼んだらなんと驚くことにOKが返って来たために、彼女は自ら言い出したことだったが恐る恐るインターフォンを鳴らす羽目になった。
そう間をおかず出てきた男、降谷は目つきの悪いイケメンと化して扉を開けて出迎えと言う名のガン付けをしてきた。
その姿はと同様疲れた人間の様相を呈していた。
「……疲れてるじゃん」
「お互い様だろう」
降谷は帰って来たばかりなのか上着こそ脱いでいたがネクタイは緩めただけだ。
やっぱり帰ろうかなとが踵を返そうとすれば見越していたらしく手首をしっかり捕まえられていた。
ゆっくりと目線を向ければ疲れてはいるようだったが一人になりたいというようでもないらしい。そこに拒絶の色は見えなかった。
「家に帰るより楽で来たんならここにいればいいだろう。俺はいいって言ったんだから」
ああ、でもシャワーは先に浴びさせて。は風呂場で寝かねないだろう?
文句を言う前にくたびれたイケメンはシャワールームに入ってしまった。
「……疲れてるなら、言ってよ」
あいにく返事もなければそんなことを言ってもくれないことは百も承知だったのでは溜め息をつきながら靴を脱いだ。
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必死の思いでソファで寝落ちてしまう前にこまごまと寝る前の支度を整えることで座り込むことを避けたはなんとか降谷が出てきたときも意識を保っていた。降谷にも驚かれたが怒る気力もなく一言だけ覇気のない文句を半分床に落としながらふらふらとシャワールームへと向かった。
入れ替わりでシャワーを浴びてリビングに出てみれば休めばいいのにソファで作業をしている姿がある。
降谷は仕事の話は一切しない。立て込んでいたり不在がちにすることだけは連絡してくれても、具体的にいつがいないとはあまり言わないし、愚痴ひとつこぼさない。ただ疲労の色だけは見せて、気だるげにするのだ。それだけは、に許されている彼の姿だった。
「寝た方が効率いいんじゃないの」
「……」
「おーい」
「」
の心配はぞんざいに流された挙句見向きもせずに手招きをされて、はなんだと近づいていく。
同棲とまでは言わないけれど泊まる道具一式は揃っている部屋は仕事の不定期な降谷に会うのは家が確実ということで自然とこうなっていた。一泊ぐらいは特に問題ないぐらいには二人の付き合いは続いている。
バスタオルを首にかけたままが近づけば仕事の手を止めて降谷は自分の足元にを座らせる。バスタオルを手に取る。の頭にかぶせ、わしゃわしゃとおもむろに髪をふきだした。
「な、なに!?」
「気分転換」
聞いてない、とが文句を言っても降谷は今思いついたと振り返ることをさせないままに、思ったよりも優しい手つきで水気をふき取っていく。ぞんざいに扱われるかと思えばタオルドライの手つきは優しく丁寧だ。が自分でするよりも丁寧かもしれない。よく見たら脇にドライヤーまで揃えている。
自分の仕事の疲れは温まったら少し飛び、丁寧に扱われることで今度は真後ろの男に意識が向かう。人は触れ合うと安心するというが降谷はそれをわかっているのかはずいぶんと安心していた。だから、自分よりもおそらくは様々なものに囲まれ忙しくストレスも想像のつかない相手が心配になってくる。
「ねえ、疲れてるみたいだから早く寝なよ」
「人のサービスを疲労の混乱のように……」
タオルであらかた水気を取ると今度はドライヤーが音を立てはじめる。大きな音は降谷の声を隠してしまう。
「こうしてると落ち着くからいいんだよ」
「え、なに?」
「そっちこそさっさと寝ろ」
「むう」
もちろん早く休みたくて、それと少しだけ姿を見れたならとここに来てるのだ。その通りなのだがは面白くない。
確かにほっとしたくてきて、望んだとおりになっていても相手の調子まで考慮していなかった。その余裕がなかった。だから訪れてみて少し申し訳なくも思っていたのだ。だから遠慮してみせたというのにそれも言外に気にするなと言われてしまってははどうしようもない。
「ばーか」
「熱風当てるぞ」
「あつい! ばかばか!」
「ほら、乾いたから、さっさと寝ろ」
自分でするより綺麗なのでは、と思う出来には悔し紛れにお礼を言うほかなかった。
「ありがとうございます」
「いい腕だろう?」
「その通りだよ悔しい! 今度リベンジする!」
かといって目の前のキューティクルヘアをはたして綺麗に整えられるのかには不安だらけだったがなんでもできる男はやはり目の前にすると悔しいのだ。恋人ならなおさら。
「わかったから。ほら、寝るぞ」
どうやら降谷が寝るまで寝ないと決めていたのはばれていたらしく、パソコンも閉じられて寝室に向かう降谷に両脇を抱えられて立たされる。
「わ」
「何なら配送サービスも承ってますが?」
「結構です!」
振り切ってずんずんとベッドに向かうの後ろ姿に降谷は目を細めて小さく微笑んだけれど彼女が振り返ってもそれはもうほぼ消えていた。
「なにニヤニヤしてるの? 変態?」
「台無し」
「何が?」
「なんでも」
の納得がいく前に部屋の電気は消され、ベッドの温もりはまあいいかと意識を手放すには十分な破壊力だった。
「おやすみ」
「ん~おやすみ」
それは少し疲れた二人のある日の夜。
title:まよい庭火