その街には休暇で立ち寄った。海が綺麗だという話だったから。

 降谷零が珍しくそんなところに行こうと思い立ったのは無理矢理休暇を取らされたのに隠れて仕事をしていたら夕方頃にバレて追い出されたからだ。
 ワーカホリックもここまでくると部下であっても強気で帰宅を促してくる。自分たちの休息という名目で休むのもまた上席の仕事だと言い切られればさすがの降谷も退かざるを得なかった。自覚はあったし普段ここまで言わない部下に気を回させるのも彼としては不本意だったのだ。
 しかしだからと言ってそのまま帰宅するのも気が向かず、どこかの店に立ち寄るのも良かったが外に出た時に眩しい日差しを見てふと海に行くことを思い立った。

 昔、高校生の頃に海が好きだと言っていた同級生が夕陽を背に海を見に行こうといったのだ。
 サーフィンにハマって波を探してあちこちを移動したこともある降谷だったが海をただ眺めるだけの心地よさはあの頃に知ったように思えた。
 そう思いつくとこれは良い思いつきだという気持ちが強くなり、車で飛ばせばあの頃電車で向かった海は近づいてきた。

 季節は夏、時刻は日暮れ近く、そろそろ帰ろうという子ども連れや青年たちが多い中、車から降りたスーツの降谷は異様に浮いていた。
 もちろんそれを気にする降谷ではなく、スーツの裾を託しあげると裸足で砂浜に降り立った。
 まだ熱さの残る砂が足の裏に訴えかけてくるが降谷は何食わぬ顔で人の少ない海岸線へと向かう。
 チラチラと降谷へ視線を向ける異性の存在は彼の中ではないことになっているらしい。
 泳げそうな砂浜より岩場に近い場所へ行くのは昔もそちらへ連れて行かれたからだった。
 その時は降谷も相手も制服で、靴を片手に裸足で歩いていた。時折波打ち際を歩く相手が波を蹴り上げては降谷に当てようと必死だったが器用に避けてみせたのももう随分と前の話だ。

 だから視界の先に自分と似た物好きの姿を見て少し目を細めて、そして目を見開いた。
 相手も眩しいのか少し動きを止め、それからぶんぶんと手を降り出した。

「降谷!」

 夕日を浴びて笑う相手はあの日降谷と海を見に行った相手だった。

**

「何年ぶり? 相変わらずかっこいいね」

 からりと笑う相手はあの頃と変わらず降谷に物怖じしなかった。かっこいいと言う彼女の言葉はそれ以上もそれ以下もなくただ思っているだけの他意のない言葉だ。
 日焼けした肌は焼け過ぎた様子もなく適度に夏を満喫している姿のようだった。

「そっちこそ、相変わらずだな」

 昔と違うのは降谷はスーツに裸足で、あの頃よりも筋肉質でしなやかな体つきになり少し目に隈をつくっているところだ。
 彼女はティーシャツに短パンにサンダルに麦わら帽子と見事に夏の恰好であの頃よりもやわらかく笑っていた。
 少し人が減った海岸線を二人で並んで歩く。降谷は昔のように片手に靴だ。

「そうかな? これでも成長したつもりなんだけどな」
「まあ出会い頭に波打ち際から海水を蹴飛ばさなくなっただけ大人になったか」
「やめといてよかった! ちょっとやろうかと思ったけど降谷のスーツ高そうだから躊躇っちゃったよ!」
「……やっぱり変わってないな」

 まさか出会うとも思わなかった彼女は時折この浜辺に来ているという。
 その時折に降谷のあるかないかわからぬ休みに当たるなんて偶然とは恐ろしい。

「まあ多少は大人になったんだよ。降谷はいかにも働き詰めのエリートだ」
「働き詰めは余計だ」
「そうかなあ。働きすぎてる顔だよ」

 首を傾げて下から降谷の顔を覗き込む姿は昔と光景がダブって見えた。
 昔のことは今の降谷には少し眩しくて、影から窺う彼女の姿も少し眩しくてほんの少しだけ目を細める。

「昔もそうやって疑われたな」
「高校生なのに過労死するのかってぐらいマルチタスクしてたからさあ」
「性分だろ」

 覗きこむ彼女からふいと視線を逸らして前を歩く。彼女のことを見ていないのに彼女はいつも勝手に視界に入りこんでいた。
 今日もサンダルを踊らせて重たい砂を踏みしめて前に現れる。
 それが降谷は嫌いではなかった。
 時間は二人を大人にさせたけれど、二人の間の距離だけが高校生の頃のまま、目の前にある。

「ねえ降谷」
「何だ?」
「海は好き?」

 降谷は立ち止まる。彼女は降谷の前に立ちながら何歩か後ろに下がった。
 夕焼けは海の向こうへと身を隠し、お互い眩しさに目を細めることはない。
 一瞬表情を止めた彼女を見て降谷も真っ直ぐ見つめ返す。それから、ふっと、表情を和らげる。

「ああ。あの頃からより好きになった」
「良かった」

 あの日も夕方から海に向かい、暗くなるまで海岸を歩いて、ほんの少し明るい薄闇の中電車に揺られて帰った。
 疲れて重たい体と眠気に負けてよりかかる他人の重さに身をゆだねて降谷は窓の外の景色が暗くなるまでずっと見つめていた。

「自分の好きなものを好きな相手に好きになってほしかったんだよね」

 笑う彼女は歳を重ねた分だけの色味を増している。
 ゆらゆらと、掴めば逃げる、引けば追う、波のような距離を保っていた。
 彼女に誘われなければ降谷は海には行かなかった。静かに海の音に身をゆだねる心地よさをあの頃知ることはなかった。

「随分と、ロマンチストだな」
「私も人並みに夢見がちな少女だったってことで」

 照れ隠しに笑うようにして降谷に背を向けた彼女は先ほどよりも早足だ。砂に埋もれがちな足を降谷から離れようとせっかちに動かしているのが丸わかりだった。

「夢見がちついでにもう少しロマンがあるとは思わないのか?」

 ピタリと動きを止める姿に降谷は思わず笑ってしまう。わかりやすすぎるにもほどがある。

「砂を綺麗に落としたら助手席を空けてやる」
「そのお高そうな靴に砂が入り込んでなかなか取れない呪いをかけたい!」

 今度もまた早足だったが降谷はそれを笑いながら見ている。
 良い休日の夜になりそうだった。