靴を脱いだ時、さらりと砂がこぼれ落ちた。
海から遠い場所へと連れてきてしまったその砂はきっと明日の昼にはきれいに集め取られて可燃ゴミの中に吸い込まれていくのだろう。
呪いだと笑って告げた彼女の言う通り、素足からか風に乗ってか、どこからか革靴に入り込んだ砂は哀れにも都会の塵芥となってしまった。
当の本人はおそらくその発言も忘れかけてベッドに寝転がってパタパタと足を遊ばせていた。
「降谷さ、真夏の女が来るに忍びないホテル選ぶとか私の女としての度胸試されてると思っちゃった」
「随分と堂に入ってたぞ」
車を飛ばした先は適当に見繕ったホテルだったけれど彼女が言う通りTシャツ短パンサンダルでは少々入りづらい入口には違いなかった。麦わら帽子はさすがに手に持ってはいたけれど、隣がスーツの男ならちぐはぐ加減は明らかだった。
それでも彼女は諦めたのか開き直ったのか、一見すればなんてことないように降谷の隣に立っていた。昔から基本的に周りを気にしない性質なのは変わっていないようだった。
ホテルは奇しくも先ほどと同じような海沿いだったが、眩しい泳げるような海沿いからところ変わってベイサイドの海沿いへと景色は変わっている。世界は先ほどまでの主導権をくるりと返したかのようにスーツ姿の降谷の方が似合っていた。
「こういうところにはそれなりのお洋服で、それなりの雰囲気で来たかった」
「行きずりの二人にしてはまあまあ贅沢だな」
「同級生だよ! 行きずりって人聞きの悪い」
携帯と財布だけを入れた小さな斜めがけポーチ一つでついてきた彼女に何も言えることはないはずだ。同級生と言えど卒業後は連絡一つ取っておらず、十年近く経って再会したらもはや赤の他人である。
赤の他人に近い知り合いにほいほいとついていき、化粧直しすら持っていないと告白する彼女がコンビニに寄ってほしいと言ったのに小銭しかないからと結局替えの下着だけ買って、メイク用品はと言えばナチュラルコスメしかしてないからいいのと返された。おごってやると言えばそういうのはホテル代等々をたかるからいいとのこと。そして明日はスッピンだから送らないと許さないと言われてしまった。それもそうだろうとは思ったが、どうにも調子を掴めない。
「降谷明日も休みなの?」
「そうだろうな。休めないから休めと部下に言われている」
「嫌な上司~」
人を押しのけて早々にシャワーを浴びた彼女はバスローブの前を適当に結んで、うつ伏せのその姿から危うく胸が見えそうだったけれど気にもしていない。タオルで髪の毛の水気を入念にふき取った後で、サイドテーブルにはドライヤーを用意している。降谷がシャワーを浴びている間にドライヤーをつける気だろう。
「そっちはどうなんだ」
「最近仕事辞めたから明日も自由の身だよ。よかったね」
何がどういいのか、聞くと面倒な予感しかしないので降谷は無視してシャワーを浴びることにする。彼女の会話に真面目に付き合ったとて実にならないことの方が多いのだから話半分が気が楽だった。
「降谷」
背中にかかった声はこれから起こることにこれといった期待もない、昔廊下で降谷を呼び止めたときとなんら変わらない調子だった。
「何だ」
「いや、何でもない。シャワーいってらっしゃい」
何か言う前に彼女はその身を起こしたかと思えば早々にドライヤーとコンセントをつなげて大音量で髪を乾かし始めていた。
**
「降谷さあ」
「何だ」
行為の最中も、終わった今も、彼女は恥じらうこともなく、それでいて煽情的で漏れる吐息はあの頃なら聞けることのないもので、降谷は悪い気はしなかった。焼けていた肌がしなる様を冷静に見ている自分がいるように、目の前の降谷を冷静に見る静かな瞳の奥の色が最後までなくならなかったのも、なかなかに気分をくすぐられた。
そんな気配はもう微塵もない彼女は気だるげに、背を向けた降谷の背中をなぞっていた。
何か文字を綴っているらしいが気にも留めていないので文字だということしか降谷にはわからない。携帯に異常を知らせる連絡はなく、このまま明日は本当に休みになりそうだった。
器用に背中をなぞりつつ、飽きたら背中に唇を寄せてくる女のその唇の色気のなさは実験のような機械的な動作だ。なぞった背中の跡をたどる様に気まぐれに唇で追っていく。
「背中がきれいだって、昔も思った」
「お前と寝た記憶がないが」
「……降谷って本当に」
当時の知られざる事実を確認したことで彼女は深くため息をつく。
「立ってる降谷のね、背筋がピンとしてるのがきれいでね。その時の横顔が好きだったな」
「なんでまた、横顔なんだ」
なまじ顔がいいことに自覚がある男である。
怪訝な顔をする相手にロマンがないなと彼女は笑う。
「人は手に入らないものを美しいと愛でる趣きを持っているものだよ」
「自分のものにならないのに?」
「それでもそこにあったらいいものはあるでしょう、そうだな、海とか」
海という言葉にほんの少し躊躇った彼女の呼吸に気づかないでいてやる鈍感さを振る舞うのが優しさなのか、それを気づかないはずはないと彼女に知られているように気づいて振る舞ってやるのが優しさなのか。久しぶりに会った女の望むことは降谷にはわからない。
ただ、どちらを選択するのかを迷う程度には過去の彼女との思い出は彼女のいう横顔と同じ類だった。
「海にいた理由を聞かれたいなら、聞いてやる」
彼女がどうして海を好きなのか、昔聞いたとき、何てことのないように彼女は笑って答えた。
きれいなものを見ると落ち込んでいても元気が出るから、と。
一拍。落とされた言葉は何の色もなかった。
「婚約者が死んじゃった」
相手の異動をきっかけに決まった結婚で、彼女は勤めていた会社も辞めて、引っ越しの準備をしているところだったという。
式は落ち着いてからと二人とも納得していて、異動地の住居も決めたよと連絡があったその出張帰りに彼は交通事故に巻き込まれた。即死だったと彼女は淡々と告げた。
「仕事も辞めたばかりで、幸い実家に部屋が残ってたから荷物全部まとめて持って、帰ってきたところだったの」
入籍してたら大変だったね。入籍前だったけど突然だったし向こうのご両親も泣きながら謝ってきちゃって大変だったんだよと、他人事のようにしか告げられない彼女の顔を降谷は見ることはできず、背中にかかる吐息だけがただ彼をくすぐらせる。
嵌めていたはずの指輪は彼と出会った時点では彼女の左手の薬指にはなく、どこにいってしまったのだろうか。
「昔ね、降谷を海に連れ出した時はきれいなもの見てもらいたい、それだけだった」
「今日は?」
「今日は、腫れ物みたいに扱われてるのにも疲れちゃってさ。波の音を聞いて、水平線を見て、波打ち際でも歩けば落ち着くかなと思って」
それは、婚約者の話はいつ頃の話だったのか。
彼女は取り乱すこともなく、ただ他人の物語を語るように努めていて、日に焼けた肌だけが彼女が何度か海辺を彷徨いでたことを教えてくれる。
決して降谷の背中に縋り付くことはすまいと、何だかわからぬ文字を背中で綴る女が昔のままではないことを降谷は改めて感じる。そして彼女の現在をただ憐れんでやる気持ちすら持ち合わせない自分も知った。
それは、本物の偶然であろうかと、彼の心はいつでも猜疑の心がなくならない。
それでも背中を辿る指先を、唇を、降谷は美しいと思う。
「生きてるね、降谷」
「そうだな」
「生きてる人に触れたの、久しぶりだなあ」
手のひらが降谷の背中にひたりと吸い付く。ひんやりとした感覚で彼女の手のひらが冷えきっているのがわかるけれど、降谷はそのままにしておいた。
降谷はただの行きずりの同級生で、海に彷徨いでる女の方に振り向き、その手を包んでやるような手のぬくもりもかける言葉も持ち合わせない。
ただ、背中から伝わる、その手のしなやかさを触れずに感じていたかった。
彼女も同じように思ったのかはわからない。
じっと、息を潜めように彼女はしばらくそのままだった。
いつまでそうしていただろうか。
ふと、少しだけぬくもりを取り戻した手の感触が消え、今度はその背に横顔が寄せられたことを知る。耳が背中にひたり。
「降谷、明日は美味しい朝ごはん食べてさ、海沿いドライブして送ってよ」
「お前が起きれたらな」
「なに? まだ夜更かしするの?」
笑う彼女の声がさざ波のように響き、降谷はくるりと体ごと彼女に向き直す。
試すような瞳の奥は相変わらずひんやりとしたままであることを認め、降谷はその口の端を思わず持ち上げていた。
「さっき、背中に何書いてたんだ」
答えとは違う質問に彼女は瞬きを数度。
そうしてにやりと笑うと内緒、とその瞳を光らせて、話はおしまいと言わんばかりにその腕を回して唇を塞いできたので降谷はそれに乗ってやることにした。
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