「雨、」

 目が覚めたとき外は心を乱すような音を鳴らしていた。彼女の隣には誰もいなくて、部屋は冷たい空気を持ったまま、薄っぺらなシーツだけで身を包む彼女に容赦なく孤独をつきつけた。
 思わず口元に指を当て、彼女は笑う。

「煙草の火がないよ」

 彼女はライターもマッチも持っていない。そもそも煙草なんて普段は吸わない。
 彼といた日、目が覚めた後、彼が口をつけた煙草を笑いながら奪い吸うのが、彼女の煙草だった。煙草の火をつけるのは彼、一口吸ったそれを当たり前のようにその手から取り、口元に煙草をくわえる。相手は微かに笑いながら煙草を彼女の口元からさらい、愛しいものとキスをするように煙草を吸う。しばらくすると彼女が奪い取る。そんなことをしながら、起き抜けに二人で一本の煙草を吸うのがいつの間にか習慣になっていた。
 膝を抱えて窓の外を見る。どんよりとした曇り空。降り続ける雨。冷たい部屋。

「煙草の銘柄、覚えとけば良かった」

 雨の音で声は消える。
 掻き消える声。拾ってほしい相手は、何処の空の下か。











「アニー、泊まらせて」
「あんたまたかい」
「またはこっちのセリフ。シンのやつってば危ない橋わたる時は一緒に寝るくせに起きる前に出て行くのよ? 信じらんない」

 アニーは彼女のことも、シンのこともそれこそ幼い頃から知っている。スパイクが出て行く前、彼の後ろをついていく双子と、鼻で笑いながらハッキングばかりしていた彼女を見守っていたのはいつの頃だったか。
 今じゃどういうわけか彼女はシンと二人で部屋を持っている。リンはこの二人の痴話喧嘩に巻き込まれながらも相変わらず仲は良いようだった。

「でもいつもちゃんと帰ってくるんだろう? 信じて待っておやりよ」
「待つのなんて、大嫌い。リンだってあいつビシャスと木星よ。今回は二人揃って飛び出してった」

 リンもシンも、時には宇宙に飛び出して危ないことをやる。死にかけたこともある。その度に心臓が壊れるかと思うぐらいのショックを受けて、彼女は寝ずに看病をする。リンもシンも、二人とも彼女にとって大事な人だから。
 そして意識を回復させた怪我人に彼女はいつも言うのだ。
「おかえり、馬鹿男」
 最高にぶすくれた、とても幼馴染と恋人に見せる顔ではないような、そんな顔で。
 それを見て起きた二人はただいまと、一人は素直に笑って、もう一人は半分小馬鹿にしたような笑みを浮かべて。

「おかえりを言えない日なんて、考えたくもない」

 早く帰ってこい。
 絶対に二人には見せない泣きそうな顔で、彼女はおかえりを言う瞬間を待っている。










がシンと一緒になって良かった」
「は?」

 それは以前、シンが宇宙で他の惑星との取引で留守にしている日のことだった。
 双子はどちらかが出かけている時、いつも以上にを構った。リンが出ている時、シンはと部屋で出来る限り一緒にいようとしたし、シンが出ている時はリンがと一緒にいようと食事をする。この日もそうだった。
 寂しいだとか、そういう感情より前に三人の間でそれが習慣になってしまっていて、お前ら三つ子みたいだなと、スパイクに笑われていたのは随分と昔のことだった。

「シンはあの頃、揺れてたから」

 なんとなくの腐れ縁が男と女になったのは割と最近のことだ。ここ二、三年の。つまり、スパイクがいなくなってから。
 双子のどちらもショックを受けていたけれどリンの方が割と立ち直りが早かったことを、も覚えている。スパイクが死んだとされたあの時、平静を装っていても引きずっていたのはシンの方だった。彼は何だかんだ言いつつ、スパイクに憧れを抱いていた。彼の背中を、見ていた。

「別に弱った男に付け込もうとしたわけじゃないけど、まあ結果そうなっただけ」
の片思いは長かった」

 にこりと笑うリンはの片手では足りない片思いの年数を知っている。自らの弟がその長い片思いを長いこと勘違いしていたことも。

「うるさいわよ、リン」
「懐かしいな」

 三年と少し前、彼らの世界は平和だった。しかし歯車は徐々に狂いが生じ、あっさり世界は崩壊した。

「私、ジュリアのこと、嫌いなんだよね」

 リンもシンも慕ってたけど、と酔ってきたのかはグラスを手に笑う。氷が彼女に同調するかのように揺れて音を鳴らす。
 シンには内緒よと、彼女は笑う。

「あの人がいたから、ぜーんぶ、歯車が狂った」

 だーいっきらい。
 甘い声で毒を吐く彼女に、リンは苦笑い。

「確かに、狂ったのかもしれないな」

 良くも悪くも、すべて変わってしまった。
 笑うリンは酔いつぶれた彼女の向こう側に自分と同じ顔を見つけた。

「おかえり」
「……ああ」

 どこから聞いていたのか、彼は不機嫌で、リンはおかしくて、グラスに残っていた酒をぐっと一気に飲み干した。












 日差しのきつい日だった。は暑くて日除けにするはずだった上着を腰に巻いて目の前の光景をじっと眺めていた。
 くるくると、リズムはいまいち悪いが踊るような少年二人がそこにいる。ダンスと呼ぶには不格好で、組手と呼ぶには迫力が足りない。本人たちは必死だが、じゃれているように見えなくもない。
 少女のため息は二人は当然気づかないが隣の男、スパイクが気が付いた。

「シンってね、意外とずるいんだよ」
「へえ」
「上手に手を抜くところは手を抜くし、実は悪戯も好き」
はシンのことばっか見てるもんな」

 当の相手はリンを相手に組手をしている。勝った方がの隣にいるスパイクとの組手の権利を得られるという、とても大事な勝負の真っ最中なので二人とも集中力がすさまじい。
 男ってみんな馬鹿だね、と二人を見守るスパイクの隣ではアイスを口にしている。アニーの店で買ったのだろう。急に暑くなった今日、アイスはとても魅惑的な存在だった。

「それ、俺にもくんない?」
「スパイクお金あるでしょ。自分で買いなよ。子どもにたからなーい」

 手厳しいガキだぜと、スパイクは本当に忌々しそうに言う。ガキは嫌いだと、ガキ認定された三人は目の前で言われたがなぜだか彼の周りをうろうろと離れなかった。そして彼もそれ以上うるさくは言わなかった。

「あんなに傷だらけになってまで、強くなりたいもん?」

 わからないなあと、アイスをなめながらは呆れ顔だ。彼女にとっては喧嘩は慣れたものだがわざわざ鍛えて強くなりたいものではない。それよりもいかに大人の考えたプログラミングを抜けるかを考える方が楽しかったし、見事に抜けて情報を勝手に見る時の小気味よさの方が快感だった。
 そう言うとスパイクはお前も十分変わってるけどな、と前置きして、笑う。

「男は、いざって時に持てる強さが欲しいもんなんだよ」
「……一番になりたいとか? それとも何かを守りたいとか」
「そういうやつもいるな」

 じゃあスパイクは、と聞こうとしたけれどどうせ答えなんて返さないのだろうと、地に伏せたシンに気づいたは適当に頷いておいた。












 小難しい屁理屈を並べて口げんかをする相手に大層怒りを覚えたものだ。よくもまあそんなに口が回ると、その時感じたことを今も覚えているし、その頃の名残は今も時折現れる。

「なんだったか、笑った時、すごくかわいかったのよね」

 表情の崩れない奴だと嫌な奴だと、そう思っていた頃のことだ。そんな相手がひょんなことで笑ったのだ。それがまた、小生意気そうなところなんてどこにもないような、かわいらしい笑顔で。
 強いて言うならば、それが彼女の恋の始まりだった。

「今はかわいいとこだけ見せなくなったけど」

 目の前ですやすやと息を立てて眠る彼はその中でも大層かわいい彼だ。普段はセットしている髪がくしゃくしゃで、ほとんどの人が知らないだろう顔。彼女が今独占している。

「かわいくないならいらないか?」
「起きてたの」

 起こされたんだと、隙間を埋めるように彼女を引き寄せた。胸の内で色気のない驚いた声が聞こえて彼は苦笑い。

「かわいくない声だな」
「じゃあいらない?」

 挑戦的な笑みを浮かべる相手に彼も挑戦的に笑い返す。

「今からかわいくすればいいだろう」
「かわいいシンはおしまいか」
「かわいいは褒め言葉じゃないからな」

 反論しようとする唇を封じ、かわいい声が漏れてきたから彼はしてやったりと、彼女に微笑みかけた。











「私の好み? あんた女なのに妙なこと聞くのね? 私のこと好きなの? はいはい。そうね、わかってるわよ。あんた好きな人いるんだったわね。で? 私の好みって言ったわよね。そうね……顔は良いに越したことはないけど、清潔感がある男かな。あとはそう、スーツが似合う男も良い。え? スーツなんて着たらだいたい割増でかっこよく見える? ああ、確かにそうかも。じゃあ私服のセンスが良い男、も条件に入れとこうかな。それから、ちょっとひねくれてる感じが好きかも。素直じゃない感じ。ああ、わかる? そう。それで多少危ないことしててもいいから、変に生き急がない奴ね。そりゃこんなところで酒飲むならあんたもわかるでしょう? ほら。そうなると強いとなおいい。え? 条件が多すぎる? いいじゃない、好みを聞いてきたのそっちでしょ。まだあるんだけど……仕方ない。じゃあこれだけは絶対ってやつだけ。これが最後よ。……朝起きた時、ベッドで一緒に一本の煙草を吸ってくれる男。そういう男が好き」







(Memories)