※変換5のカタカナ変換をひらがなにすると深海くんがひらがなで名前を呼んでくれます。
夢ノ咲学院が科によって住み分けされているとしても、校舎内で会うのでなければ出会う難易度はかなり下がる。
ただし前提として相手と知り合いで、なおかつ連絡がつく必要がある。
「ちゃん寝かせて」
「ここは仮眠室じゃないんだけど」
だから普通科に通っていたとしても前提をクリアしている私が薫と会うことは会う場所と時間さえあれば特別難しくない。
私が薫とこうして顔を合わせるのも元々会う場所と時間が存在していたからだ。
「店主が許してくれてるからいいの」
「……まあそうだけど」
夢ノ咲学院から徒歩圏内、高校生には入りにくいアンティーク調の雰囲気のある喫茶店は叔父の店だ。半分趣味でやっている店で、私はここでアルバイトごっこをしている。そして薫は叔父さんの店の常連だ。
私が一人でも店に訪れ入り浸るようになった時、既に薫は店に来ていた。認識したのは中学三年生の夏頃だったと思う。
店の一番奥、面積の広い肘掛けに頭を預けて一休みする貴族のように薫はくたりとよくそこで眠っている。叔父さんは薫のためにカーテンレールまで作ったので薫が寝ている時にそこは中が見えなくなる。ここは幕が下りているから入らないようにと言わんばかりに深い赤のビロードをカーテンに選んで雰囲気までばっちり作っている。
薫のためのそこは店にも馴染んでいて叔父さんのセンスはいいとこれを見た時は惚れ惚れした。そこにいる薫が見事に収まってしまったのも悔しいけれど何かの絵のようで私はその景色が好きだった。悔しいあまり本人には言ったことがない。
静かな時間の流れ方をするこの店ではコーヒーの匂いと振り子時計の揺れる音で満ちている。
そんな店で、他のお客さんもいない時だけ、薫は息を潜めるように寝ている。それ以外の時はカウンターに座り叔父さんと話したり、本を読んだり、たまに私と冗談を言い合う。
大抵平日の夕方は私と薫ぐらいしかいないので今日も薫は店内に入るなり奥へ向かい、しばらくソファに座っていたかと思うと私をじっと見つめてきた。カーテンレールの奥は薫の特等席だったけれど私の特等席でもあった。二人がいる時、薫はソファ、私はスツール。優しい私は薫に昔から居心地の良いそこを譲ってあげている。
そして二人でいる時に大きな瞳が訴えかける願いを私は何年も前から知っている。
「ねえちゃん、お願い」
「なに?」
「眠るまで手を握って」
この軽薄な見た目と言動しかしなさそうな他学科の同級生はいつものへらへら顔をどこにやったのか、この時だけは真顔でお願いをしてくる。
はしばみ色が綺麗に見える瞬間、目を逸らしたくなるぐらいまんまる綺麗だと思う反面、目を逸らしてはいけないものだと少しだけ見つめ返す。
そうして私はため息をひとつ。
ソファにスツールを近づけた。それから締め切らずにほんの少しだけ隙間を残すようにカーテンをしめた。
「眠るまでだからね」
「ありがとうちゃん」
一番初めに言われて恥ずかしくて躊躇った後、明らかに変わった態度を見て腹が立ったので自ら薫を引っ張ってソファに寝かせて手をつぶさんばかりに握ったのは2年前、高校生になってしばらくしてからだった。
今なら変わった態度の薫は学院や外で見せる「羽風薫」だったのだとわかる。
眠るまで手を握ってだなんて、女の子の前ですら笑って冗談のようにしか彼は言えないはずだ。冗談ですら言ったことがあるのかも怪しい。
そう気がついてからの私はこの大きな男の子の願いを何も聞かずに叶え続けることを決めた。
「おやすみ」
「おやすみ、ちゃん」
ブレザーを脱ぎ常備されているブランケットに身を包み、何も飾らない薫はすっと目を閉じた。
私の中の薫は初めからこうだった。
叔父さんと話す薫はコーヒーの話を教わりサーフィンの楽しさを語り時々ぼんやりしたり静かに本を読んだり風景の写真集を見ていたりいる。
外の薫はそうではなく、軽率でサボり屋で、やればなんでも卒なくこなすのらりくらり飄々とした人間らしい。
私はたまたま叔父さんとこの店という安全圏で出会った希少な人間なんだろう。外での薫に会ったこともあるけれど私にとって馴染み深い薫は目を閉じて眠りたがっている薫だった。
薫のことはほとんど知らない。ここにいる薫と、何度か見た学内の薫と、ステージの薫。
「もしも本当に歌いたくなったら、どんな歌を歌うんだろうね」
誰に届けたいと思うんだろうか。どんな思いを届けたいんだろうか。
眠ったのか眠った振りなのか、わからないまま空いた片手でポケットの中のイヤホンを取り出す。携帯に入ってるノイズ混じりの音源はこっそり聞いた薫のユニットのライブ音源だ。
十分上手いとも思うのだけれどここでの薫を知っていればなんとなくわかってしまう。
今はまだ、きっとそうなれる時までの束の間なのだ。
「それまでは好きにおやすみ、薫」
出来たらいつかのその時、その歌を近くで聞けますように。
少しだけ動いた気のする手を優しく握ったまま、私は沈む音に耳を傾けた。
***
夢ノ咲学院は学科別の区分けが明確にあり、特にアイドル学科は将来的にどころか現在も露出の多い生徒もいるため厳密に住み分けがなされている。
だから同じ学院といえども普通科に所属していれば普通は知り合いでもなければ出会うことがないはずだった。
「こんにちは、さん」
「え」
学院近くの公園で買い食いだと手にした肉まんを片手にベンチに腰をかけたところだった。
声をかけてきたのは同じ年頃の男の子で、冬だというのに髪が濡れていて見ているこちらが震えそうだった。
タオルを貸そうかと体を動かしだしたのに次の言葉でそんな気遣いは吹っ飛んでしまった。
「かおるの「だいじなこ」ですねえ」
「薫」
その音を私は知っている。その名前を私は知っている。その人を私は知っている。
そして寒そうな彼の制服は薫と同じものだ。それも声をかけられた時からわかっていた。
透き通る海の色の髪をした彼もまたアイドルなのだ。
「私は薫の知り合いというか、友だち、みたいなものだよ」
「「ちゃん」だけは、おぼえてます」
薫の女遊びもとい女の子と遊ぶことの多いこと、相手がいつも違うことは今に始まったことではないから、目の前の彼も私をそういう子と思っているのかと思ったものの違うと言いたいみたいだった。
ふわふわとした空気をまとっている相手は不思議なことこの上なかったけれど、それよりも風邪を引くために濡れているのかと言わんばかりに濡れている相手に何もせずにはいられなかった。タオルを持っていたので拭くように促したのだけれど少しだけ嫌そうな顔をされてしまった。でも風邪をひかれても寝覚めが悪い。我慢比べをしているとなんだかんだ拭いてくれた。しかたありませんねと。
仕方ないも何も今は冬の最中で私はコートこそ羽織っている。私の方が一般的なことを言ってるはずなのに相手の方が私のわがままを聞いたことになっている。アイドル科はこんな癖の強い人も科ゆえに多いのだろうかと疑問は尽きないけれど、とりあえず要求を呑んでもらえて少しだけホッとしたところで妙な男の子はもう一度口を開いた。
「かおるは、さんといると、わらいますか?」
「薫が? うーん……笑う、かな?」
「では、なきそうですか?」
首を傾げながら問いかけるこのやわらかな声の持ち主の言いたいことがわかった。この人が薫をどう思っているのかも。
どうして私のことを見て薫の知り合いだとわかったのかとか、そういうことはわからないけれど、薫にとって優しい人なことだけは確かだ。
「泣かないよ。でも、肩の力はいつもより抜けてるんじゃないかな」
「それは、よかったです」
答えに彼は微笑み、私も微笑んだ。
しんかいかなたくんというふわふわな彼は私の夢ノ咲学院アイドル科の二人目の知り合いになった。
それからも時々、水場の近くにいると普通科にでも時折現れる彼とは冬の寒空の中でほんの少しおしゃべりするようになった。
卒業という言葉が見え隠れする冬のはじめのことだった。
***
夢ノ咲学院にはアイドル科があり、他校はもちろん、校内の他学科でもおいそれとお近づきにはなれないのだけれど中には例外もいる。
その一人がアイドル科の羽風薫だ。
本当かどうかは置いておき彼とお付き合いをした、遊びに行った、等々の噂は普通科にも飛び交う華やかな噂の一つとして有名だ。おそらく本当のこともあるし嘘もある。
普通科に所属している私はそんな中であっという間に回ったある一つの噂の答えを待っていた。
「ちゃん、ちょっと休ませて」
真冬の厳しさもピークを越えたかとおもえばまだまだだと冷え込んだりする頃、何食わぬ顔で叔父の喫茶店に現れた薫はいつも通り定位置のソファになだれ込むと黙って紅茶を待っている。推薦で進路を早々に決めた私が年末から紅茶を淹れる練習を始めたら、薫はそれを飲みたがり、ここ最近はいつも私が薫に紅茶を提供していた。コーヒーじゃないのは目の前で美味しいものが確実に飲めるのに淹れる気がしなかったからだ。
私は入ってきた瞬間から本人も見ずに紅茶を淹れ始め、叔父は客が来たのに見向きもせず読書を続けている。
他に客もいないし、そもそも薫から一杯分以上のお金を叔父は受け取らない。最近私に淹れさせてる分は練習としてタダで飲ませているぐらいである。ほぼ客とは言い難い。
「久々に来たと思ったら頬が真っ赤だよ、薫」
「あー、まあ、ね、ちょっと」
ちょっとどころか盛大に頬をビンタされたのだと見てわかる。冷やさずにここまでやって来たのだろう。商売道具だろうにとため息をつきながらもそれ自体を責める気もないので追及はしない。
「有耶無耶に逃げる男よりは少しマシだよ」
淹れた紅茶はストレートだ。砂糖も欲しそうな顔だったけど添えてやらなかった。
苦い顔をしててもそのまま口をつけた薫にも思うところがあるようだった。
羽風薫が身辺整理をしている。
そんな噂は普通科の女子の間であっという間に出回った。
噂が出始めた頃から薫が店に顔を見せる頻度は落ち、たまに来てはぐったり疲れた様子でソファで一時休んで家に帰っていった。
来る度にふわふわとしていた薫の雰囲気は凛々しさの見える、と言うと言い過ぎだけれど背筋が伸びたように見えた。
「普通科でも噂になってる?」
「羽風くんが女遊びやめたってさ」
それもご丁寧に一人一人話をしに行っているという。
苦笑いをしている薫に私は素っ気ない返事しかできない。
卒業を目前にしたこの2月の最中にこの優男はようやく腹を括ったらしいと叔父にさんざん喚いて笑われたのは数日前だ。
「そうなの。けじめ、つけようと思って」
「つけたの?」
「うん。あと、ひとり」
その一人はプロデュース科にきた転校生だろう。それぐらい、私にだってわかる。
ろくにユニット活動をしなかった薫が3年生になってしばらくした頃から以前より練習をし、変わり始めた。その頃に変わったことといえば新設予定のプロデュース科に女子生徒が先に一人転校生でやって来たということだ。
その子が来て、薫は変わった。
「返礼祭で言うの?」
「ちゃんにはなんでもお見通しなんだなぁ。できたら砂糖とミルクください」
カウンターに叔父が綺麗に用意してくれたお盆を持ち、運んであげる。
意地悪をしたかった。このぐらいしか出来やしない。それすらも中途半端だ。
私は、ここにいただけだった。
「はい。私帰るね」
「どうしたの急に」
「今日は用事があるの。叔父さん、片付けせずにごめんね。じゃあまたね」
借りたエプロンを返して足早に店を出た。
気をつけて帰るんだよという叔父の声とぽつりと奥から溢れる私の名前に曖昧に頷いた。
それから返礼祭まで、私は店には寄り付かなかった。
馬鹿みたいだって、笑われるかもしれないけど、次に会う薫は私の知らないいきものかもしれないなんて、そんなことにおびえていたのだ。
***
「『ちゃん』、どうかしましたか?」
「奏汰くん」
棒立ちでアイドル科の正門近くにいるとふわふわとした足取りでやって来たのは奏汰くんだった。今日は制服ではなくユニット衣装だ。今日はアイドル科にとっては大事な日だ。校内も公開され、あちこちにアイドルを見に来たファンがいる。この返礼祭はユニットによっては先輩の卒業もあるので当初から追ってきたファンにとっても外せないライブになっている。
「えっと、どこから見ようかなって」
「かおるは、そこにはいませんよ……?」
知っていますとは言えずへらりと笑った。
あの後、何度か店に薫は来ていたらしい。連絡も来たけど無視してしまった。
だけど今日ばかりは避けられない。夢ノ咲での羽風薫は今日が見納めなのだ。その後はきっと今とは違う羽風薫で、それは悪いことではないけれど確かに変化だ。
私がいつの日か隠れて録音した薫とは別の、もっと輝く薫に。
「かおるは、『ちゃん』をまっています。『ちゃん』は、かおるの『うみ』ですから」
奏汰くんは薫と同じ海洋生物部だと聞いていたけれどサーフィンが好きな薫と海の生き物が好きで水浴びが好きな奏汰くんでは随分とタイプが違う。そのはずなのに2人は仲が良い。海が好きだというだけで2人はこんなにも通じるものがあるのだろうか。性格が合うとも少し違う気がする。それともアイドルには私には見えない何か繋がるところでもあるんだろうか。
心配する奏汰くんは私が薫にとって大事なものだと言うけれど、私は首を横に振る。私はただ静かに薫を見ていただけだ。
「私は、薫の望んでいるものではないんだよ、奏汰くん」
「……? それは、かおるにしかわかりませんよ……?」
「ちゃんっ!」
声は噂の人で、奏汰くんはわかっていたのではないかというぐらいあっさり私のそばから離れた。
「またあいましょうね」
「奏汰くん!」
「待ってちゃん行かないで!」
大声で名指しされては立ち止まらないわけにはいかないし人通りが少ないわけではないのだ。何を考えてるんだこのバカ男は。何のために連日女のもとに足を運んだんだろう。せっかくけじめをつけたと言われてるのに台無しにするつもりだろうか。
キッと睨みつけて周囲に視線を巡らせれば薫も意図に気づいたらしく頼んでおいた衣装の追加なんだけど、とわざとらしく事務的な内容の話をしながら関係者以外立入禁止のロープを越えて校舎裏に私を連れて行った。
そうして振り返った薫は随分と情けない顔をしていた。捨てられた犬みたいだった。
「来てくれないかと思った」
「前に言ったよ。一度でいいから薫のステージ生で見たいって」
今日が夢ノ咲で最後のステージでしょうと言えば薫はうんと頷いた。
「上位のユニットが参加できるステージに行けたから、見に来て欲しい」
「言われなくても観るつもりだったよ」
そう言いながらも薫の顔を見られない。避けに避け続けてきたこともわかっている。
だからなんとかしてぐっと薫を視界に入れた。睨むようになったのは許して欲しい。
「それで、プロデューサーには話、できたの」
「……ああ、うん。できたよ」
へらりと笑う薫は本当にこれでもかというぐらい精神的に弱い。基本的には自分の好きなことをするし、周りが何を言っても気にしない。ただ唯一、平気な顔をしてみせるけれど、こと女性に対して薫の心はぶれぶれだ。3年間見てきたから間違いない。
薫と噂のあった相手も何人か知っているけれど、そのうちの一人はああいう彼氏はちょっとと濁すしていた。その薫の何かを、私は薄々感じている。
あのビロードのカーテンの中は幕が下りた世界で、薫はそこではゆっくりと眠れたし、私の手を眠るまで握って子どもみたいに眠ることができた。それでいいと私は思っている。
話は終わりかと目の前の薫を見てみても、立ち去る様子は見せない。少しうつむいたままかと思えば、そっと私のほうを見つめてきた。いつもより真剣な顔だ。
「なに」
「今日、歌うんだ」
それは知っている。そのために最後の最後で遅いと思われようとひどいと罵られようと馬鹿にされようと、薫は今の自分にできることをやってきたのだ。
自分のために、後輩のために、歌を聞いてくれる誰かのために、歌を聞いてほしい誰かのために。
自分と他者と向き合って、真剣にアイドルをやろうと頑張っている。そしてそれをステージで叶えようとしている。
薫は今、私が見てみたかった薫だった。
「聞いてて。ずっと、見てて」
祈るような言葉だった。
その瞳が適当な言葉でそらされることはない。
返礼祭のあわただしい空気の中、その言葉だけは不自然に静かで、真っ直ぐに、はっきりと私の耳に届いた。
もう、薫はあの喫茶店の奥で息を潜めるように眠ることはないんだろう。どんどんと奥深くへ沈んでいく、あの薫はいつの日か、あのままあそこで沈んでしまった。
胸にこみあげる名前のつけられない熱いような苦しいような、のどをしめつけられ、目の奥を熱くさせる、ぐちゃぐちゃになった気持ちをうまくいなせないまま、私は不細工に笑っていた。
「馬鹿だな。もうずっと前から見てるし、待ってたよ」
その答えに、薫はどうしようもなく安堵した顔で微笑み、掠れる声でありがとうと、そういって、触れたかわからないぐらいそっと私を抱きしめて、すぐに離れた。
それから慌てて、行かないとと背中を向けたその背を、振り返りませんようにと思わず願ったら、わかっていたかのように薫は振り返って、今度はいつものように茶目っ気たっぷりに笑って見せた。
「今日、返礼祭終わったら、会いに行く!」
そして今度こそ走り抜けたその背中を消えるまで呆然と見つめ、それから苦笑いだ。
「薫、女の子を口説くのへたくそになってるんじゃないの」
それでもいいのかもしれない。むしろそのほうがいい。
わがままな心を認めて、私も夢見た薫の歌を聞きに、背を向けた。
(みなぞこのゆめ)